第二章

第二章 プロローグ

 朝の食堂は静謐な空気に包まれていた。

 給仕のメイド達が立てるかすかな物音と衣擦れの音が聞こえるのみで、彼女らが押す給仕ワゴンすら、ほとんど音を立てることなく、滑るように移動する。

 席についている四人に至っては、食器の音はもちろん、衣擦れの音すらさせることなく食事を続けている。

 一種異様な緊張感が漂うが、この場にいる者にとって、これはごく普通の日常の光景だった。

 上座に座る黒髪の男性エルフ――ウルリヒ・エリシス・グラースが口を開く。


「テオドール、剣の鍛錬はどうか」


 会話と呼ぶには余りにも簡易な言葉。


「ベルツから三本に一本は取れるようになりました。こちらに戻った日に先生に見て頂いたのですが、良く鍛錬しているとお褒めの言葉を頂きました」


 活力を秘めた青年へと成長しつつある、黒髪の少年エルフ――テオドールの返答に、ウルリヒはにこりともせず、頷きだけを返す。

 続いて、ウルリヒの左隣に座る、金髪の女性エルフ――彼の妻であり、テオドールとレミリアーヌ兄妹の母であるアデーレが口を開く。


「レミリアーヌさん、明日のお茶会の準備は進んでいますか?」


 黒髪の少女エルフ――レミリアーヌが硬い表情で答える。


「ご出席頂けるご令嬢方々のご趣味、経歴、嗜好は調査済みです。それぞれの方ごとに百通りほど、会話のパターンを想定して暗記済みです。ホストとして万全の体制と自負しております」

「……そう」


 アデーレは若干鼻白んだような、呆れたような表情を一瞬浮かべると、気を取り直すように微笑む。


「頑張っているのね」

「はい」


 レミリアーヌの表情がかすかに緩む。

 ウルリヒは水の入ったグラスに口をつけ、一口だけ飲みテーブルに戻す。


「茶会程度は準備なしでも出来るようにしておきなさい」


 場が凍り付く。

 苦言としても感情のこもらない言葉。しかし、口にしたのがウルリヒである場合、それは罵倒に近い叱責であることは、この場にいる者全てが理解していた。


「……精進、いたします」


 再び硬くなった表情が、さらに崩れそうになるのを辛うじて耐え、レミリアーヌが絞り出すように謝罪の言葉を口にする。

 ウルリヒは無表情のままうなずきだけを返す。

 アデーレとテオドールは、レミリアーヌを気にする様子を見せつつも、口を出すことはなかった。

 結局、この日、家族の会話はこれだけだった。



【レミリアーヌ・エリシス・グラース】

「終わったぁぁぁー」


 初めて自ら主催したお茶会をなんとか終わらせた私は、獣舎にあるシルバの個室に突撃する。


「ワフ……」


 寝転んだシルバに頭からダイブすると、仕方ないとばかりに、ため息のようなシルバの声。

 そう仕方ないのだよ。何がって? その、あれだよ。セラピー?

 グラース公家の獣舎は、獣舎の概念が壊れている。豪華な建物、清潔で明るい各従魔用の個室、建物の構造は人の家とは違うけど、質という点ではそこらの貴族の屋敷ともためを張れるだろう。

 その中にあるシルバの部屋は、私が素の自分を出せる数少ないプライベート空間である。うん、私の自室は色んな理由で無理なんだよね。

 初お茶会でガリガリ削られた私の精神力を回復するには、やはりここしかない。


「ふぅ……」


 シルバもなぜだか事情は分かっているようで、嫌な顔一つせず私の為すがままである。

 わはは、ふかふかもふもふ。


「嬢ちゃん、茶会ってやつは無事終わったのか」

「あ、ハボックさんこんばんわ。まぁなんとか」


 獣舎の管理人のハボックさんが、シルバの部屋の入り口から顔を出す。シルバの部屋には扉がないので、のぞき放題なのだ。

 五十代くらいの人族男性のハボックさんは、私が素を出して話せる数少ない相手だ。


「やっぱり、お前さん貴族に向いてねぇな」


 老境に入りつつあるとは思えないほど筋肉盛り盛りの腕を組んで、入口の壁にもたれかかる。


『レミリアーヌよ。いいかげんシルバ離れすべきではないか?』


 部屋の入り口、ハボックさんの頭越しにぬっと顔を出したのは黒竜のクロヴィスだ。通称クロちゃん。そう呼んでるのは私だけだけど。

 竜の口は人の言葉を喋るようにはできてないけど、クロちゃんは魔法で空気を振動させて普通に喋ることができる。器用だね。


「てめぇ! レディーの部屋を勝手に覗いてんじゃねぇよ!」

『ぐわぁ!』


 どごぉ! っと、ものすごい音を立ててクロちゃんの顎を殴るハボックさん。

 流石元Sランク冒険者である。“国崩し”こと黒竜クロヴィスを素手で殴るのは、大陸広しと言えど、彼くらいのものだろう。


『おぬしだって覗いているではないか!』

「俺は管理人だから良いんだよ!」

『理不尽な!』


 ぎゃーぎゃー騒ぎながら、クロちゃんの首を、彼の個室に押し戻すハボックさん。クロちゃんは体がとても大きいので、首を伸ばして色んなところに顔を出すのだ。暇ともいう。


「すまねぇな、奴はちょっとデリカシーってもんが足りてねぇ」


 戻ってきたハボックさんが謝ってくれるけど、まぁ私がシルバ離れした方が良いってのは事実なので仕方ない。色んな人に言われてるし。


「向いてなくても、この家に生まれた以上やってかなきゃですからね。シルバ分補給して頑張りますよ」

「ワフ」


 『シルバ分ってなんだ』って遠くでクロちゃんが言ってるが、シルバ分はシルバ分だ。

 残念だったな。体表が鱗のクロちゃんでは代わりになれないよ。

 当分、私はシルバ離れしないぞ。


「庶民に生まれたら、違ったんですかね」


 何がとは言わない。というか言えない。私にも自分で何のことなのか、よく分っていないのだ。思わず口をついた感じだった。


「嬢ちゃん、冒険者にでもなったらどうだ?」

「え?」


 冒険者? ハボックさんも何を言っているのだろう。私が冒険者なんてなれるわけがないじゃないか。

 生まれも育ちも貴族で、人の手助けがないと生きていけないのが私だ。自分で仕事を取って生きていく冒険者なんて、コミュ障な令嬢とは対極の職業だろう。

 まぁ前世知識があるから、やろうと思えばそれなりにいける気もしないでもない? どうだろ。


「そうでもないぞ? 実力さえあれば一人で好き勝手生きていけるって点で、冒険者ほど自由な職業はない。嬢ちゃんの弓や魔法の腕なら余裕だわな」

「えぇ……」


 ははは、そんな馬鹿な。

 うーん、ハボックさんがこんな突拍子もない事を言って慰めてくれるなんて、そんなに落ち込んで見えるのかな、今の私。

 いかんな、こんなことじゃ今後千年も生きていけないぞ? むーん。



 その二年後、私が本当に冒険者になっているとは、この時は考えもしてなかった。

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