第18話

 泣き疲れて眠ってしまった簓を寝室に運んだのは緑川だった。ぽんぽん、と頭を叩くとふにゃりと笑われる。親子ほど年が離れていたが、その所為か父性のようなものが芽生えてしまっているのは困りものだった。それはどちらかと言えば山本の仕事だと思うだけに。

 帳簿は新しいものに変えて、不正されていた分は乙茂内家の金庫の中で永遠の謎になってもらうことになった。訴えられなければ犯罪には出来ない、警察の都合の悪い所だ。それも今は少しは助けになったかな、と電子タバコを一嗅ぎする。オジサンお口臭いです、と言ったのは何歳の頃の義景だっただろうか。

「緑川様」

「あん?」

 声を掛けて来た山本の言葉に、緑川は簓の髪をもうひと撫でしてから立ち上がり、ドアに向かった。

「私は――私は何の罪にも問われないのでしょうか。私だけがそれで、良いのでしょうか」

「良いか悪いか決めるのは、この際坊ちゃんだからな。坊ちゃんが訴えなきゃ何にもなかったのと同じことだ。親告罪じゃないとはいえな。悪質っちゃ悪質だが情状酌量の余地もある。月に五万円じゃ、ちっとばかしせこいかもしれんしな」

「ですが私はそれを、三年間も続けて」

「百八十万。坊ちゃんのポケットマネーで済むし、簓ちゃんは義務教育は終わっているんだから、これ以上あんたが何にもするこたないよ。どうしてもってんなら自首しても良いが、坊ちゃんはしらばっくれると思うぜ?」

「他の役員が吐きましょう」

「悪党の言うことは自白以外信じないのが俺の流儀だ」

「そうだよ。それに簓ちゃんのお陰で、山本とも離れずにいられるんだ」

 響いた声に目を向ければ、杖を突いた義景がででんと待っていた。

「簓ちゃんには僕のボディガードと、この家のメイド、両方として働いてもらうんだからね」

「そういやお前、メイドにもうってつけの能力とか言ってたが、ありゃどういう意味だ? ボディーガードならエアバッグ代わりにでもなりそうだが、メイドにエアバッグは要らねーだろう」

「失敬な言い方しないでくれないかな、僕の未来のお嫁さんに」

「ええええええ」

「冗談だよ、まだ。十年経ったら分からないけど」

「いや坊ちゃまそれは私が許しませんよ。あの能力がどこから出ているのかは分かりませんが血筋だとしたら子供も悲しいことになりかねません。私が興信所で調べた限り、あの子は相当傷付けられて育っている。同じ過ちは繰り返せません」

「もう子供の心配とは速いな山本」

「すっけべーすっけべーすっけべーすっけべー」

「否! とにかく家名を護るためにも、あの子だけは!」

「家庭教師を付ければ良いしいざという時は簓ちゃんが抑止力になってくれるだろう?」

「坊ちゃま……」

「まあ今は冗談だよ、今はね。でも僕は案外彼女に一目惚れしていたのかもしれない。厭ってる力でそれでも僕を助けて走り出してくれた、ざんばら髪の彼女に」

「くぅっ」

「お前さんが泣くなよ山本。まあ式には呼んでくれ、太鼓持ちぐらいするからよ」

「その頃にはオジサン何歳だろうなあ。今からでも奥さん娶ってくれれば仲人頼めるんだけど」

「……まあこの仕事してる限り無理だろうな」

「あと口臭いしね」

「十年ぶりに言うことがそれか。そうだあの頃はまだ可愛げのある坊ちゃんだった。だから許せたが今は違う。歯あ食いしばれや」

「おや暴力警官はいけないな。一一〇番したら上司が菓子折り持って謝りに来るよ」

「ほんっと可愛げが無くなったなお前!」

「明日からは社長だ。強かさも身に着けるさ」

「要らない強さ! って言うか世襲制にしたらまた事故とか誘拐とかになるからそこは考えとけよ」

「勿論。未来の妻の名に懸けて」

「簓?」

「うん」

「ですから坊ちゃま……!」

「はっはっは」

 日の丸扇子を広げて笑う義景に、頭痛を起こした山本が緑川に寄りかかる。

 大変な鯛を釣り上げてしまった簓という小エビを哀れに思いながら。

 だがそれも、一瞬の心配だろう。

 彼女を信じる者がいる限り、彼女は何にも傷付けられない。

 針本簓は、傷付けられない。

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