第17話

 簓がほぼ徹夜で『異常』を使っているお陰で、義景の骨折は医者が驚く速さで治って行った。これならば社長就任式にも松葉杖程度で出られるだろう、言われた時は正直に言えばホッとしたし、義景もそれは同じようだった。これから荒波に飛び込んで行く人だ、身体ぐらいは元気でいて欲しい。簓のささやかな願いと裏腹なのは、毎日おやつを届けてくれる山本の存在だった。山本司。一体どうしてこんな偶然が続いてしまったのだろう。思わずにはいられなかった。偶然。否、家を追い出した祖父から見れば必然か? だが、誰にとって意味のある必然なのか分からない。退院を翌日に控え、ランドリーや冷蔵庫の中の物を片付けて行く山本に、簓は訊きたかった。どうして、と。それはほぼ確定された過去だと言っても良い。だが現在の山本にとってそれはどういう意味なのだろう。

「山本さんは、前は理事会に居たんですよね?」

 何気なさを装って訊ねてみると、フフッと笑った髭にはいと返事をされる。

「どんななんですか? 私。ああ言うのってドラマでしか見たことなくて」

 テレビドラマも見たことはないが。

「何のことはない利権争いの場でしたよ。坊ちゃんをお育てする方が楽なぐらいでした。ですからそうしたのです。最初はマナー講師として、試験を通って執事として。そうして家を管理するのは大変ですが、充実していると言えますでしょう」

「そうなんですか……入社試験とかやっぱり難しいんですかね、ああ言う会社って」

「そうでもありませんでしたよ。私の時は名前さえ書ければ受かる、と言われていた時代でしたから」

 日本の景気がまだよかった頃だろう。義景も簓ももちろん知らない時代だ。

「あ」

「よう」

 義景がリハビリに出ている最中の事だった、緑川の来訪は。もっとも図って来たのかもしれないが。荷物を抱えた山本がでは、と出て行くのを見守って、いささか固い病院の布団に座り込んでいたところである。ぼりぼりと頭を掻いていた緑川は、ひらりと二枚の用紙を差し出した。街の名前が書いてある特殊紙。

 それは山本司の、否針本司の戸籍謄本だった。

「一度離婚歴があるな。若い頃だ。苗字は山本から針本になっている。が、それも破綻し、山本に戻った。その時に生まれていたのは長男・翼。母元で育った翼は結婚して別世帯を持つことになる。それがこっちだ。一女を儲けている。……嬢ちゃんの事だな。針本簓、ちゃん」

 目の前が真っ暗になりそうだったが何とか堪えて、乾いた口唇ではは、っと笑うと、やはり鼻水が出そうだったが、啜って堪えた。

「針本翼は事業に失敗して多額の借金を抱えている。三年前だ。その時から嬢ちゃんの養育費を出すのは山本になっている。昔の通帳の名義のままで。このくらい調べればそっちの事情は片付くのかい? 簓ちゃん」

「……はい」

「警察を足代わりにして、図太い嬢ちゃんだよ、まったく。今度はこっちの方にも手を貸してもらうぜ。新社長に対する暴行事件の数々を、な」

「はい、解りました」

「……本当に解ってんのかい? そんな真っ青な顔で」

 山本が実の祖父だったこと。父母が生きてはいるらしいこと。そして――養育費は、山本から出ていたこと。

 自分は山本の負担だったのだろう。事業の借金の援助もしていれば、執事の給料でも紙のようなものだ。衣食住と主人の絶対の信頼がある限り死ぬまで続けられる仕事ではあるが、それも足腰の調子が良い時までに限る。車椅子の執事なんて見たこともない。ましてあの家の召使は山本一人なのだ。手厚い福利厚生は付いていても、限界というものがある。

「実は私、こういうもので――」

 スプーンを取った簓の『異常』に、流石の緑川もひと嗅ぎしようとしていた電子タバコを落とした。


「義景君!」

「怪我はもう良いのかい、後遺症なんかは」

「大丈夫です、叔父様方」

 にっこりと鉄壁の笑顔で家に戻った義景を出迎えたのは理事会の人間たちだった。散々写真を見て名前と一致させてあるので驚きはしなかったが、彼らが『本当に』義景の心配をしていないことは知っている。モエ・エ・シャンドンの残り香。外に出してあった複数の酒瓶。きっと義景が戻るまで六日間、パーティ状態だったのだろう。山本がそういう状態にしておいてくれたのだろう。だがそれもこれでおしまいだ。しかし全員が血縁者と言うのも面倒だな、と簓は思う。絞り込みが難しい。だが例の男が『理事会の総意思』だと吐いたのだから、これはもう逃げられないだろう。すっと義景の前に出て壁になる少女に、ちっと息を漏らす気配がどこからともなく聞こえる。

「義景様は明日の就任式に向けてお休みを摂らねばなりませんので、理事会の皆様方はどうぞお引き取りを。お車は外に用意してあります――白と黒のね」

「な、何?」

 簓の肩越しに見えたパトカーに、男達は絶句する。

「古臭いものを作ったものですねぇ、しかし、血判状とは。指紋はいけませんよ、あっさり足が付きます」

「こ、小娘、貴様何を言って」

「しかも全員分。全部で十枚。言い逃れは出来ませんよ?」

 近付いて来るのは緑川だ。サイレンの無いパトランプに照らされた顔がいつもより厳めしい様子で懐から逮捕状を取り出す。初めて見る光景におおっと言いたかったが、それは流石に止めておいた。

「小峠正弘と言う男からの自白で、理事会全員の関与が疑われたので家宅捜索をした。出て来たのが十枚の血判状だ。こっちには立派な警察犬が居たんでな、すぐに見付けられたぜ」

 ニッと笑って見せる、歯が黄色い。警察犬呼ばわりされるのは気持ちの良い物ではなかったが、彼女の『異常』がなければ三時間足らずで十件の家を回り書斎のどこに隠してあるかしれない血判状を探し出すことは不可能だっただろう。唖然としている男たちを警官が連れて行く。待て、と叫んだのは理事会長だった男だ。

「ならば、ならば山本も連れて行け! そいつは三年前から帳簿を偽造してっ」

「そっちはもう手を打ってあるんだ。良いから行きな」

「なっ」

「ワイン代は後程請求させていただきますのでご容赦を。では、人殺しの皆さん」

 義景を轢いたバイクは盗難車だったが、だからこそすぐに足は付いた。バイクが停めてあった駐車場のすぐ隣に役員の家があったのだ。しかも比較的若いメンバーで、バイクの知識もある――盗難知識もある男。普段は自分のバイクに乗っているから、ヘルメットは自前だった。自宅近くでそれを脱いでいるのも、英国並みの監視カメラ大国になりつつある日本では映り込んでいた。自分の家の監視カメラにだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 そしてゆっくりと出て来た山本がパトカーに向かおうとするのを、ぎゅっと力強い緑川の手が押さえた。訝しげにしている山本は、ぱちん、と小さく義景に頬をはたかれる。

「坊ちゃま――」

「何故言ってくれなかった。息子たちの窮状、孫の養育費。言えばいくらでも都合してやったものを、何故っ」

「あなたがそう仰る事が分かっていたからですよ、坊ちゃま」

 ふふ、と笑って山本は簓を見る。

「私は三年前まで孫がいることも、その孫が『異常』であることも知らなかった。だからこそせめて出来ることをと、理事会に頭を下げて月五万円の養育費を作ることにした。息子の借金は膨大で、私が執事でなければとても返せる額ではなくなっていた。だから私は坊ちゃまを裏切った――見損なったでしょう、坊ちゃま。良いんです。私はリウマチで、そろそろ家の細々としたことを出来なくなってきている。坊ちゃまには孫がいる。それで――」

「この、ガキがあああああ!」

 言って突撃してきたのは警官を振り切ってアーミーナイフを構えた男だった。今更そんなことをしても無駄なのに、むしろ罪状が重ねられるだけなのに。我慢がならなかったのだろう。だが緑川は山本と義景を両手で家の中に入れ、簓一人をターゲットにさせた。

「緑川様っ」

「警部何を」

「いいから見てな」


 遠慮することなく、簓はナイフを受けた。しかし彼女に刃先は届かない。見えない壁が邪魔をしているのだ。それが、それも、簓の『異常』の一つだった。ぽかんとした男を弾き飛ばし、簓は浮かべたナイフをぐんにゃりと鉄の丸に変えてしまう。ぽかん、としていたのは山本と義景もだった。病室で一度スプーンを捩じ切られる瞬間を見ている緑川は、あまり心配していなかったが、ほっと息を吐く。


「これが私の『異常』ですよ。山本さん――お祖父ちゃん。義景様」

「それ、は」

「超能力。サイコキネシスって奴です。あとヒーリングも使えますよ。引き寄せ、アポートって奴が最初に義景様を助けられた能力です。血判状を探り当てたのはサイコメトリ。他にも使おうと思えば出来るのかもしれないですけど、今のところ自分が把握しているのはこれぐらい。気持ち悪いでしょう? 辞表は明日で良いですか?」

 苦笑いをすると、ぺちん、と義景に小さくはたかれた。

「そんなボディガードにうってつけの能力隠してたなんて、簓ちゃんずるいな! 僕の怪我損じゃないか!」

 ずるい?

 まるで羨むようなものの言われ方に、簓は目を丸める。

「そんなボディガードにもメイドにもうってつけの君を、離すはずないじゃないか」

 にっこり笑った義景に、簓の目の前は真っ白になる。


 この能力のせいでいじめられてきた。いじめられるどころか虐待されてきた。誰も受け入れてくれなかった。自分が外に出ればみんなが学校に入った。公園を離れた。何があっても自分のせいにされてきた。運動会でたまたま同じ走者だった子が転んだら自分の所為にされた。図書館の本が足りないのも自分の所為だった。全部自分が悪くて、それが当たり前だった。こんな自分を愛してくれる人なんていないと思っていた。だけど今目の前にいる人は自分を受け入れてくれて――愛して。くれて、いる?

 白いシャツに縋りついて泣き喚くと、誰もそれを咎めなかった。

 泣いても良い場所に来たのだと、心底から理解した。

 今初めて、はっきりと。

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