第15話

 自分が信用されていないことは何となく感じていた。少なくとも山本の半分も信用はないだろうことが分かっていた。それでもあの無二の信頼感を得られれば、幸せだろうなあとも思っていた。だからバイクからも助けてくれたのだろうし、簓の検算にも文句は言わなかったのだろうと思っていた。それでも自分は山本にかなわない。出て来る鼻水をよれたハンカチで拭きながら、簓は検算を進めて行く。五万。どうしても毎月それだけが合わない。三年前。自分は小学生だ。義景は大学を卒業したばかりだろう。企業には関われない頃だ、まだ。入社式も済んでないかもしれない。やっと零れた涙をすかさず拭って、簓は考える。長期間にもなれば、例えば十年もやっていれば六百万という大金にもなろうが、それも乙茂内グループの中では大した数字ではないだろう。それを知っている人間は、社内にしかいない。誰もやってこない社員。見舞いぐらい来ないのだろうかと訝ってしまう同僚、理事会。来てくれるのは山本だけ。そう言えば山本がプレートを変えておいたと言っていた。だから誰も来ないのだろう。病院の最奥の個人部屋。追い詰められたらおしまいの。まあその時こそは簓の『異常』で片付けてしまうつもりだが、そうなったら一も二もなく追い出されるだろうことも解っている。少し長居をしすぎたかもしれない。ぬるま湯に浸かりすぎてしまったかもしれない。義景の怪我が治ったら辞表を出そう。自分の周りにはいつも暴力があって、自分でそれから逃げることは可能だが、他人まで守り切れないことは分かった。それは良い学習だっただろう。次はまた街を出て違う街に行こう。清掃員の仕事でもしていれば、細かく履歴書もチェックされずに有無の要らない肉体労働で目立たずに暮らしていける。窓拭きでも良い。危なっかしい仕事の方が自分には合ってるかな、思いながら何度目かしれない検算を続けて行く。三年前。何があったのだろう。もしも山本だとしても、切っ掛けはあったはずだ。何か金に困るような、切っ掛け。とは言え執事の給金に住み込みでは貯金は唸るほど溜まっているだろうから、やはり考え難い。しかし目は離せない。何故理事会が集まっている? 仕事用のPCは持ち歩きの出来る薄型のノートタイプだ。情報は引き出せまい。個人PCにはロックが掛かっているだろう。しかし何より、山本はそんな家を放置して洗濯ものを取りに来ておやつまで置いて行った。不用心過ぎないだろうか? 面会時間もまだあると言うのに。それにまだ義景は風呂にも入れないと言うのに、ここに来ている場合だったのか?

 何もかもは霧の中、闇の中。ぽつんと灯になっているのが山本の不可解な行動。彼は優秀な執事だ。何故理事会の連中が家に押しかけていることを言わなかった? 暗中模索だ。合わない計算。頭が痛くなる。くしゃ。と風呂に入っていない髪を握り締めると。ぽん、と頭を叩かれる。びくりとして振り向くと、そこに居たのは緑川だった。いつの間にか随分長い時間考え込んでしまっていたらしい。頭を叩いたのは紙コップのコーヒーだった。ありがとうございます、と受け取れば、苦笑いされてしまう。

「坊ちゃんも言い過ぎたって反省してるみたいだからよ。一段落ついたら行ってやってくれや。山本が理事会の事を言わなかったの、あいつもあいつなりに気にしてるみたいだしな」

「私は――良いです。どんなに足掻いても絶対の信頼は山本さんから剥がれないと思っていますから。そのぐらい承知してないと、ボディガードなんてやってられないですよ」

「プロみたいなこと言うねえ。初めて十日も経ってないってのに」

「ッ」

 ぴくっと怯えてしまったかもしれない。カプチーノの泡が一気に消える。幸い気付かれなかったようだが、今は少し過敏になりすぎているのかもしれない。あの村にいた頃のように、ハリネズミのようになってしまっているのかも。いけない、落ち着け、と簓は紙コップを傾ける。緑川はけらけら笑った。

「情報は今どきどこからでも流れて来るぜえ、嬢ちゃん。おまえさんの境遇も知ってる。関係者は総洗いだ。しかし俺には嬢ちゃんがどうにもそんなにおっとろしい能力を持っているようには思えない。だから訝る。鑑識に回してあった防犯カメラ映像で、漫画喫茶周辺を見張るものがあった。バンに追われている坊ちゃんが一瞬で嬢ちゃんの隣に来たのも見てた。コマ落ちだろうと誤魔化しといたが、嬢ちゃんあれは――」

「知りません。知りませんっ」

「そっか」

 ぽんぽん、と頭を撫でられて、今度は冷や汗が流れて来る。怖い。この刑事がどこまで見当を付けているのか分からないことが怖い。自分はまた疎外されるだろうか。怖い。こんなこと今まで考えたこともなかったのに、今はそう感じる。義景に化け物扱いされたくない。思ってしまっている、自分がいる。

 こんな感情なら、知らなきゃよかった。

 好意なんて、知らないままでいれば良かった。

 恋なんて、知らなければ良かった。

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