第13話

 幸い給与明細と帳簿は簓がバッグに入れていたため無事だったし、被害は弁当箱二つで済んでいた。社長就任式に事故で出られなくなった旨をあちこちの会社にファックスで流すと、それだけで一仕事になる。特別に引いてある電話線、自宅から持って来たファックスにインクを継ぎ足しながら、簓は転寝している義景を見る。やはり身体的ダメージは大きいのだろう、簓の『異常』をもってしても回復に使うだけの力は注ぎ込めない。だからせめてギプスに手を当てて、骨同士がくっ付くように力を籠めるのだ。そうすることしか今の自分にはできない。否、自分さえいなければ――それでも、単に轢かれるのが義景になっただけかもしれないが。八年前の給与明細を取り出して、今まで変わらない席にいる人間をピックアップする。新しく入って来た者も一応確かめるつもりだが、古株ほど怪しいのは確かだろう。

 山本が持って来てくれた計算機でぱちぱちと数字を打って行く。算盤が習いたかったな。と昔の事を思い出す。数学は苦手だったが、マクロを組むのは得意だった。しかし義景のPCを勝手に使うのはいけないだろう。パスワードも知らないし、本当に見たらいけないものもあるかもしれない。女の人の裸画像とか。まあ持っててもおかしくない年代だろう。思うとやはり計算機が無敵の相棒なのかもしれない。ぅん、と目をぼんやり開けた義景が、数瞬そうした後でパチッと目を開く。

「っごめん簓ちゃん、寝てた」

「怪我人は寝ててください。そんなに私が信用なりません?」

「いや。社長の罷免でその能力は買ってると言っても良い。でも本来僕がやると言い出したことだからね、その本人が寝てちゃ申し訳が立たないだろう? 一週間後には退院できるって言うし、車椅子の社長はちょっと様にならないかもしれないけれど、それまでには片を付けなくちゃ」

「バリアフリーにしててよかったですよね、会社」

「曾お祖父さまが突然やって来ることもあったからね。会長を迎えるならそれなりの設備投資が必要だったんだよ、多分。僕が働き始めるころにはもうずいぶんお年を召していたしさ」

「働き始めてからはからかわれたりしたんですか?」

「いや、覚えが悪いの打ち込みが遅いの散々な言われようだった」

「可愛がられてたんですねえ」

「そうなのかな……」

「本当にどうでも良かったらスルーですよ。その点私もお祖父ちゃんには感謝してます。ご飯作ってくれたから」

「それ一つですべてを許容できる君が羨ましいよ、っと」

 義景が車椅子に乗り移る。ああ、と簓は察して言った。

「お手洗いに行くときはナースコール押して下さいって言われてますよ」

「……あのね簓ちゃん、デリカシーって知ってる?」

「意味も綴りも知ってますけど実行しようと思ったことはありません。面倒じゃないですか、物事はスパッと簡潔に。出来れば即断即決で。社長になったら義景様もそう言う状況に追い込まれますよ」

「十五歳の女の子にやり込められるのは嫌だなあ……」

「あら性差別ですか? 大丈夫ですよ私自分の事強姦しようとしてきたクラスメートの片タマ潰したことが」

「君の話はいちいち物騒だよ簓ちゃん! とりあえずナースさん呼ぼ……」

「私は検算を続けてますので。帰りもナースさん呼んでくださいね」

「はい……」

 かしゃかしゃと検算を続けていると。ある時期から計算が合わなくなるのに簓は気付く。誰の取り分が増えた訳でもないのに、きっちり五万円計算が合わないのだ。誰を洗っても出ない。新参も古参も、誰も不正はしていないがきっちりと合わない。どういう事だろうと口唇に手を当てた所で、義景が帰って来る。

「手は洗いました?」

「君は僕を何歳だと……」

「洗ったなら構わないんですけれど、ここ見てください」

 ん? と車椅子から覗き込んでくる義景にどきりとしたものを感じながら、簓はゆっくりと検算をして義景に見せる。かっきり五万円足りない。義景もふうむ、と息を吐いた。内部の犯行なのは間違いないだろうが、それにしても犯行が鮮やかすぎる。

「三年前から……ひと月五万、一年六十万」

「三年百八十万。企業にとって痛い額ではないですけれど、気味は悪いですね」

「ここからは山本にも事情を話して調べさせよう。彼も執事の資格を取るまでは、うちの社員だったからね。それからマナー講師とか経て執事になった」

「そんな資格あるんだ」

「一応日本にもね。珍しいでしょ、本物の執事」

「道理で物腰の良い人だと納得しました。でも山本さんにも伏せておいた方が良いと思います。内密に出来ることは内密に処理してしまった方が良い」

「山本も疑ってるの? 簓ちゃん」

 少しその声に棘が混じるのに、いいえ、と簓は頭を振る。

「寝た子を起こさないために、です。あと一週間は寝たままでいてくれるだろう子を」

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