第12話

 一瞬の事だった。

 オートバイからひらりと降りる男。

 まっすぐに突っ込んでくるバイク。

 そして。

 簓を庇う義景の腕。


 いつもだったら、『異常』で片付けられることだった。なのにそこに飛び出してきたのは義景で、バイクは義景にぶつかって転げて行った。きゃあ、と声がする。目撃者だろう。救急車を呼んでください、叫ぶ簓は義景の状態を確認していた。意識あり、ぶつかったのは足、大腿骨の辺りが変に曲がっている。ここか、と簓は手を当てる。一瞬義景が痛そうな顔をするが、それもすぐに和らいだ。簓の『異常』はこんな時でも役には立つ。どんどん傷を塞いで、解放骨折だったものを治して行って――届かない骨は救急病院に搬送してもらうしかないが、それでも簓は初めて他人のためにその『異常』を使っていた。村でも小さい子供が怪我をした時に使ったことはあるが、その親たちには蔑まれ、子供にも化け物扱いされた。化け物。今の自分はそれでも良い。義景の怪我を治すための、化け物で良い。ボディガードが守られるなんて冗談じゃなかった。お節介でそのくせ結構貪欲で。今だってそうだ。傷付けたくなかったのだろう。こんなちっぽけな身体をしていなかったらもう少し頼って貰えただろうか。救急車と警察が同時にやって来る。どちらに付いて行こうか迷った所で、緑川の姿が見えた。少しだけ動悸が収まると、落ち着きも出て来る。

「左大腿骨骨折です。すぐに病院へとお願いします」

 それから作ってもらったばかりの名刺を出して、

「何かあったら一番下の固定電話にお願いします。病院が決まった時にでも」

 言ってからすっかり覚えてしまった義景宅の固定電話に掛ける。

「山本さん。簓です。義景様が事故に遭いました。その内救急隊から電話があると思いますので、待機していてください」

 返事も聞かずにスマホをぎゅっと握りしめていると、嬢ちゃん、と緑川に呼ばれる。

「事故って本当かい?」

「多分違います。オートバイの運転手は私達にぶつかる寸前で身体を翻してそこから降りました。狙われてたのは私です。私が、私が義景様を守り切れなくて、ボディガードなのに守られて、だから、だから――」

「落ち着け。嬢ちゃん」

 ぽんっと頭を撫でられる。

 その温かさが痛かった。

「う、うわあああああああ」

「そうだ、それで良い」

「どうしよう、どうしようっ義景様に何か後遺症とか残ったら、私の所為だ。私がちゃんとボディガードやれなかったせいだ! 私がいたのに、私がちゃんとついていたのに、義景様に怪我をさせてしまった、あんな、あんな腫れて、どうしよう、どうしようっ」

「よしよし。怖かったな」

「義景様、義景様――」

 ぼろぼろ涙を零して泣きじゃくる簓の様子に、緑川は事情聴取もせずに待っていてくれた。その間に鑑識班がバイクや近くの防犯カメラを調べている。カウルが割れたバイクを調べていた一人が、不思議そうにしていた。

「血痕なんてないぞ……?」

 簓の『異常』で体内に戻した血液の事を訝っているらしい。だが簓はこんな所でその事を詳らかにするつもりはなかった。せめて義景だけにでも告げておけば良かったかもしれない。彼女が『異常』であること。だから何も心配はいらないのだと言うこと。言っておけば。でも臆病で、自分にはできなかった。下手をすれば気味悪がられて馘だ。それが怖かった。でも今よりは全然怖くなかっただろう。守れなかった。追い出されても仕方ない。役立たずはいらないだろう。だから、だから。

 それでも義景の怪我が治るまではせめてここに居たい。鼻水を緑川のジャケットに付けながら、うええ、と泣きじゃくる簓を、ただひたすら撫でている手は、父性すら感じる温かさを持っていた。

 ぴりり、スーツの胸ポケットに入れていたとスマホが鳴る。

『簓様、病院は最寄りの陽和病院に決まりました。私も準備をして向かいますので、簓様は直でそちらに』

「は、はい、わかりました」

『命に別状は、ないそうですよ』

 一番聞きたかった言葉をさらりと告げてくれる山本に感謝して、簓は緑川を見上げる。肩を竦めた彼はパトカーのドアを開けて、簓を招き込んだ。どこに行くんですか、と問われて事情聴取だよ、と返せる便利な職業。本当、警察学校で体術一つも習った方が良いかもしれない。突っ込んできたバイクを避ける方法、前に出て来た人間を突き飛ばす方法。真剣に考えた方が良いのかもしれない。もしもこの仕事を続けていられるのなら。

「義景様!」

 個室に足をギプスで固められた義景がいるのを見てほっとした簓は、そのまま倒れ込みそうになる。ぎゅっと肩を抱く手は緑川の物だ。よう、と手を上げると、鎮痛剤でうとうとしていた義景がほにゃりと笑って、やあ、と答える。

「左大腿骨の単純骨折だって。一か月もすれば治るらしいよ」

「ほ、随分軽傷で済んだな」

「簓ちゃんのお陰だね」

「私、私は何も、何も出来なくって……義景様にそんな怪我まで負わせてしまって、どんな顔をしたら良いのか、どう謝ったら良いのかっ」

「謝る必要なんかないさ。簓ちゃんだってあのバイクは流石に避けられなかっただろうし、手当も迅速で本当なら解放骨折しててもおかしくない所だったそうだよ。簓ちゃんのお陰だよ」

 へにょ、と笑われて、簓はまたハンカチで鼻の下を押さえる。どうしてこういう時に涙は早く出ないのか。鼻水をずずずっと啜り、こくこく頷いて、涙がやっと出て来たのを押さえる。しかし鼻水も止まらない。その様子に、けらっと笑ったのは義景だった。ついで緑川も。自分が傷付けられるのには慣れていても、他人をそうしてしまうのには全く慣れていないのが彼女だった。それが、彼女らしさだった。

「とりあえず嬢ちゃんからの事情聴取は受けてあるが、これは変わらねーのか?」

 警察手帳が手帳でなくなったせいで、刑事は別の手帳を持つのがほぼ必須になっていた。それを読みながら――横から覗くと案外綺麗な字をしていた――失礼ながら――、うん、と義景は頷く。

「僕から付け足すことはないよ。本当、一瞬の出来事だったからね」

「一瞬で女の子助けられてりゃ男ぶりが上がるねえ、まったく」

「オジサン。僕怪我人。男ぶりがあったら自分も避けてたよ」

「おやそうかい? とりあえずネームプレートは偽造しておくぜ、また違うのが釣れたら大変だからな」

「それならば私がすでに済ませました」

 気配なく部屋に入り込んでいたのは山本だった。うおっと驚いたのは緑川だけで、他二人はまあ他人ながらも家族の情で気付いていたが。しかしどうやって張り替えたと言うのだろう。ナースステーションにでも寄って来たのだろうか。

「坊ちゃま、こちら携帯電話の充電器、髭剃り、歯磨き粉、歯ブラシ、コップでございます。タオルと下着類はこちらに。テレビカードは先ほど一万円分ほど充填してまいりました。暇つぶしになりそうな本はこちらになります。また、PCは幸い無事だったのでそれもこちらに。たこ足配線はここです」

 さっさか準備していくのは随分手慣れていた。簓が目を丸めていると、くす、と義景が笑う。

「僕って昔から誘拐事件に巻き込まれて入院することが多かったからね、山本も心得たものだよ。あの頃はゲームばかりしていたけれど、今じゃ経済学の本が暇つぶしに渡されることになるとは、いやはやだね。漫画読みたい」

「どうせ電子書籍をお持ちでしょうに」

「げっ。何故それを」

「執事の勘です」

「あ、じゃあエロサイトじゃなくてやっぱりエロ本だったんだ」

「簓ちゃん! 違うってば! いでっ」

 身体を起こした義景の痛みを堪えた表情に、左右から山本と簓がその肩を押さえつける。くっくと笑うのは緑川だけだった。

「まあ養生しろや。ちなみに一応聞いとくけど、犯人の動機になりそうなことってあるか?」

 おそらくは帳簿の事だろう。しかし二人は眼を合わせて、

「明日の社長就任式の妨害、だと思います」

 敢えて帳簿の事は伏せて置いた。

「ところで山本、僕お腹空いてるんだけど」

「ホットケーキを焼いて参りました。簓様もどうぞ。メイプルシロップと蜂蜜、どちらになさいますか?」

「あ、ありがとうございます。普通はどっちなんですか?」

「それは、ご自分で食べてからお決めください」

 まだ温かいそれにまずは蜂蜜を掛けてみる。結構おいしい、初めてのケーキの味だ。次にメイプルシロップ。こちらも捨てがたい。見れば義景はメイプルシロップをたっぷり使っていた。怪我人の癖に子供染みていて、少しだけ笑いが出る。笑える。

 笑える状態で良かった。

 ぽたっとケーキの上に涙か鼻水を落として、簓はフォークを握り直した。

「あ、緑川刑事も食べますか?」

「いや食わねーよ。お前らこんなぼけぼけしてて大丈夫か?」

「坊ちゃま、水筒ですが紅茶を」

「うん、ありがとう山本」

「吸い飲みは要らないご様子ですね。本当にようございました」

「人の話を聞けえい」

「夜の病院に忍び込んでとどめを刺しに来る度胸はないと思うよ。確実に当たったのを確認してからじゃなく、アバウトな軌道でハンドルを離してるからね。さてと、簓ちゃん、バッグはある?」

「は、はい」

「検算しよっか」

「今日は休んでください……」

 さすがにぐったりとした簓に、緑川と山本が笑った。

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