第11話
「と言うわけでこの書類調べてください。判を捺す時は多分左手で押さえてると思うので、左手の掌紋を二人分調べて頂ければと」
「はいよ。しかし嬢ちゃん詳しいねえ」
「推理小説で読みました」
「簓ちゃんは家に来た時からマナーも完璧だったからね、きっと色んな本を読んでるんだろうねえ」
「まあ家に居場所ありませんでしたし。かろうじて電灯は裸電球があったので図書館で借りた本を読みまくりましたね。帰ったら寝る時間になった途端外鍵をがちゃん、でしたから。夜中にトイレ行きたくなった時なんて大変でしたよ、色んな意味で」
「君の家庭環境が本当に危ぶまれるよ……」
「まあ家庭でもなかったかもしれないですしね」
「聞いちゃいけないと思ってたけど、君のそのサラッと他人事のように言うのは何なの!? おかしいよ絶対に!」
おかしい。確かに鍵は内側から掛けるものだと学校のトイレで知っている簓には、自分の家庭環境がおかしいことに気付いてはいた。だがそれがどこまで特異なのかは分からなかったので、黙っていただけだ。訊かれれば応える。おかしいと言われれば肯定する。何せ彼女は『異常』だってので、本当は鍵の意味もなかったのだ。ただ、祖父にそれ以上嫌われるわけにはいかなかったので、朝まで我慢したりペットボトル拾って洗って溜めて置いたりしていただけで。それでも臭いとなじられたが、それ以外に方法がなかったのだから仕方あるまい。
「しかし社長が逮捕されちゃったらこの椅子、どうするんです?」
簓が指さしたのは先ほど警察に連れて行かれた社長の机だ。元々引き継ぐ予定だったのだから、義景が一日前倒しで座ることになるのだろうか。思っていると、義景はふるふる頭を振って、今日はまだ早い、と言って見せる。
「大安吉日じゃないとダメって、曾お祖父さまに言われてるからね。殆ど仕事も溜まっている様子じゃないから、明日で十分だよ。それでは皆さん、今日はこれにて失礼します。明日からよろしく」
ぺこりとおどけて頭を下げる義景に、部屋の人々は少し落ち着かない様子だった。秘書の席には誰が座るのだろう、訊いてみるともちろん簓ちゃんだよ、と言われる。
「え。私頭悪いですよ、中卒ですし成績は中の中ど真ん中って感じでしたし」
「学校で習うことは実社会で役に立たないことも多いんだよ、簓ちゃん。大卒でもぼんやりサラリーマンしていた僕が教えてあげるけれど。君には改めて検算してもらう資料も出来たし」
「へ、何ですそれ」
「役員の給与明細。多分そこから調べれば、僕の就任で不利益を得る人間が洗い出せる。今の社長になってからだから、八年前からかな」
「八年前って義景様学生じゃないですか」
「帝王学だーって曾お祖父さまによく連れて来られてたんだよ」
「どんな帝王だ……」
「変わりもんだったからなあ、坊ちゃんの曾祖父さんも」
「緑川さんはそのころから今の署に?」
「まあな、今のそいつぐらいの年だ」
「へぇ……眉毛もそのままで?」
「良いんだよ眉毛は太くても。警察っぽい貫禄が出てるだろ」
「若い顔には似合わなかったと思いますけれど、今のお顔にはお似合いですよ」
「そーか似合うか。嬢ちゃんやっぱり警察学校入らないか?」
「うちのボディガードを取らないでくれないかな、オジサン」
「まだ言うかチビッ子め」
頭の上で頭の良いはずの人たちが下らないケンカをしている。ぷっと笑ってしまうと、君の事なんだよ、と呆れた声を出されてしまった。別にどうでも良い。この仕事が終わったら潰しのきく警察学校に入るのも良いかもしれない。しかしあれと言うのは何歳から入学できるのだろう。そして百五十センチという身長は害にならないだろうか。ぽちぽちスマホで調べてみると、義景に取り上げられてしまう。ぷう、っとした顔は、まるで大切なおもちゃを奪われた子供のようだった。常に奪われる方だった簓にはよくそれが分かる。『異常』は人生と共にあったのだから。
「じゃあ私は役員の給与情報を調べますね。今夜の夕飯は要らないって山本さんに言っておいてください」
「一人でやらせる訳ないだろう、家に帰って僕も手伝うよ」
「エロサイト見ないんですか?」
「だから僕は見て無いったら!」
にやにや笑う緑川がじゃーな、と手をひらひら振って署に帰って行く。大急ぎで今のオフィスに降りると、殆ど人は残っていなかった。食べそびれていた弁当を二人で黙々と食べながら、理事会の名簿と給与明細を探す。食べながら歩き回るのはお行儀悪いよ、と言われてしまったが、速めに行動するのが癖になっている簓は生返事をするだけだった。見つけた物をくたびれたトートバッグに詰め込み、インスタントのお茶で弁当の残りを食べる。おっとりした食べ方の義景にはさっさと追い付いて食べきってしまった。夜食が欲しくなるかもしれない中途半端な時間だ。社員たちが残らず捌けてから、二人も帰路に着く。
簓を狙ったオートバイが突っ込んできたのは、角を曲がった瞬間だった。
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