第10話
コピー取りと検算の間にファックス係が飛んで来たのはめぼしい変化と言えば変化だった。オフィスにも馴染んで、でも明日でこの人達ともお別れなんだなあ、と思える程度には、簓はそこに馴染んでいた。百五十センチの小さな身体で帳簿の検算、コピー、ファックス送受信。優しい誰かが貼ってくれたポストイットで常連の番号は解るようになっていたが、一応電話帳を見て確かめてから流していく。殆どは遠くの会社で代表が社長就任式に出られないとか出られるとかそんなものだった。検算はおかしい所があったら義景に訊ねる。しかしその義景も、回数の多さに疑問を持ったようだった。一か月に一万とか二万とか、少ないながらも確実に合わない計算。ソフトに流し入れても結果は変わらず、不正使用は明らかだった。それに、いつもその検算が合わない書類には『明石』の判が押されている。
「横領……ですかね。それにしてもみみっちぃ額を」
「時間外も出しているから、そのようだね。しかしここまで来ると少し額が多すぎる。簓ちゃん、僕は社長室に行って来るから、帳簿纏めておいて」
「待ってください、義景様から離れるわけには行きません。ちょっと待っててくださいね、すぐですから」
両手に帳簿ファイルを持って、簓は慌てて付いて行く。最上階の社長室に向かうと、柔和な顔ながらヤリ手の雰囲気を出している男がひときわ大きな椅子に座って開けられたドアを見た。
「まだこの椅子は君に早いんじゃなかったのかね? 乙茂内君」
「帳簿に不正が見つかったのでご連絡に参りました」
ざわ、といくつか並んでいる机で社員たちが騒ぎ立てる。ぱん、と社長が手を鳴らすと、彼らはよくしつけられた犬のようにそれを止めた。居心地の悪い部屋だな、と簓は感じる。
「不正とは?」
「五年前から月に一・二万ずつほど検算が合いません。社にとっては大した痛手ではありませんが、そんな社員を雇い続けているのも他の社員にとって不誠実かと思い、忠言しに参りました。――誰の事かは分かるね、明石君」
社長の隣に小さな机を並べていた青年は、びくりと肩を窄めた。秘書か何かなのだろう。義景よりは少し年上、三十代に入っているかいないかの容貌の男のその反応にチッと舌を鳴らしたのは社長だった。まるで見付かったことが悪かったように。それは簓にわずかな違和感を抱かせた。
「くそっ」
言って男は立ち上がる。
「帳簿だけじゃない、他の契約書にも不正を作ったのはこいつだ! 俺が預けた判を悪用して! 俺には小遣い程度で目をつぶれと、言ったのはこいつの方だ!」
「何を証拠に。まったく、せっかく若造の頃から可愛がってやってきたと言うのに、貴様はそんな嘘をぬけぬけと」
「嘘じゃない! 調べれば解ることだ!」
「誰がどうやって調べると? まったく、これだから学の無い奴は困る」
「何だとっ!?」
「あのー」
簓は義景の背中からぴょんと飛び出し、持っていた帳簿を取り出した。
「調べられますよ、これ」
「へ?」
「な?」
同じ呼吸で言う二人にやはり人は一番近い人間に似るものなのだろうか、思いながら簓は何枚か取り出して見せる。
「義景様が懇意にしていらっしゃる刑事さんに頼めば、誰の指紋が付いて誰が捺したのかぐらい、科捜研で調べてもらえると思います」
「なっ、なんだお前は! 小娘!」
「義景様のボディガードをさせていただいております、針本簓です。多分あんまりよろしくしないと思いますけれど、とりあえず警察呼びますね」
「や、やめろ! そんなことをしたら私の退職金が、」
「因果応報って奴です――もしもし、緑川警部をお願いします。こちらは乙茂内とお伝えください」
「この、小娘がっ!」
投げられたのは今どき珍しくなった灰皿だった。ガラス製で当たったら絶対痛いのが分かる。灰を撒き散らしながらやって来るそれを受け止めたのは、義景を背後に庇った簓だった。彼女の『異常』が彼女を灰皿から守る。本当は便利な能力だったのかもしれない、この『異常』は。腹の辺りに当たらず落ちた灰皿は割れて落ちる。呆気に取られてそれから顔を青くした社長は、震えながら呟いた。
「ば――化け物めっ」
慣れた言葉だったが、痛いと感じたのはなぜだろう。何度も何度も繰り返された言葉。化け物。バケモノ。ちらりと上を見て頭一つ分は背の高い義景を見上げると、彼もぽかんとしていたが、はあっと息を吐いて簓の肩に手を乗せた。
温かかった。
外の晴天ほども、温かかった。
「だから危ないことしないでったら……」
「でも私が止めなかったら義景様の大事な所に当たってましたよ、あの灰皿」
「大事な所って」
「ちん」
「言わなくて良いから! 解ってるから! 助かりましたありがとう! でも簓ちゃんも当たったでしょ、痛くない?」
「私は慣れてますから。と言うわけで緑川刑事?」
『あー……聞こえてた分で大体分かった。何か不正が発覚して坊ちゃんのいちもつにガラスの灰皿を投げつけられて、それを嬢ちゃんが防いだと』
「そうです。大事な坊ちゃんのいちもつに。あと科捜研の方連れて来てください。調べてもらいたいものがあるので」
「いちもついちもつ言わないでくれるかな君たちは! もっと僕の尊厳を守って!」
「守ったじゃないですか、灰皿から」
「そうじゃなくて! あーもう良いよそれで……どっと疲れて来た」
はあーっと息を吐く義景に、首を傾げながら簓は思った。
(お昼ご飯の伊達巻はあげようかな)
いつも入っている甘い伊達巻を思いながら、警察車両の近付いてくるサイレンの音に、簓は帳簿のファイルが落ちそうになっているのを抱き上げた。
赤ん坊でも抱いているようだな、と経験のないことを思った。
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