第9話
翌日は天気が良かったので、朝の空気も冴えて気持ちの良い行き道だった。帰りまで持てば良いな、と思いながら簓は相変わらず重箱持ちになっている。明日は若社長の就任式だと聞いているが、はてどのようなものになるのだろう。テレビなら理事会がうんぬんかんぬんとやっているドラマをちらり見たことがあるが、実際のところは分からない。だが死者の遺言を違えるのは向こうも気分が悪かろう、と角を曲がったところで緑川が佇んでいるのに気付く。よう、と片手を挙げられ、二人揃ってぺこりと頭を下げると彼は少し厳しい顔をしていた。
「最初にナイフをねじ切られた男がようやく白状してな。理事会全体の頼みとして引き受けたそうだ。お前さんを」
「殺すことを、ですか?」
それは流石に、気分が悪い。出る杭は打たれるとばかりしぶしぶ賛同したものが居たとしても、それが理事会という組織全体の答えだとすれば、変わらない。
「嬢ちゃんははっきり言うねえ。だがそうだ。無事に明日を迎えれば連中にはもう手が出せなくなるからな」
「しかしよく吐きましたね、その男」
「時計をちょいといじくってな。今日を明日と勘違いさせた。そうすれば投げやりになるだろうってな」
「悪い顔だ……」
「子供の頃から言われ慣れてらい」
けらけら笑った緑川の眉は太く、男らしいと言えた。反して義景は細面だし、今は暗い顔をしている。つい、とその袖を引っ張ってみると、どうしたの簓ちゃん、と無理をした笑顔で言われた。あの、と答えづらいことを聞こうとしているのが後ろめたくなる。
「明日が終わったら契約終了、ってことになっちゃうんですか? 私」
「かもしれないけれどそうじゃないかもしれない。この座を狙って従弟や又従弟たちが僕を狙ってくる可能性は十分にあるからね」
「そ、ですか」
「まあ一か月ぐらいはいてもらいたいかな。本音のところ、僕は臆病だから簓ちゃんみたいな力強いボディガードがいてくれるのは本当に助かる。昨日だってね」
「そう言えば昨日のビルはどうだったんです?」
緑川に訊ねると、一転眉を顰められた。
「銃に前科はなかったが、本人は前科ありだろうな。向こうのビルから高低差含めて約一キロ、素人技じゃない。指紋も出なかったし、怪しい来客者もなかったそうだ。ただ、非常階段の鍵が壊されていたそうだから、そこから地道に登って行ったんだろうってのが本部の一致した見解だ」
「本部なんか作られてるんですか」
「一週間で四件、作られない方が警察の怠慢だって怒られらぁな」
一週間。そうか、まだそれしかたっていなかったのかと、簓はすっかれ慣れてしまった重箱を包む風呂敷を握る。あの日車から彼を助け、ナイフも防いだ。おもちゃのような車がいっぱいになるほど服を買ってもらった。そして昨日、また二連続で事件は起きた。今度は自分がターゲットになっているのだから、それは良い事だろう。多分、良い事。
「ターゲットは私に切り替わっているようですから、義景様をお守りするには具体的な犯人が挙がってから解任された方がよろしいかと」
「そう……だね、そうかもしれない。でも僕のために簓ちゃんを犠牲にするのは」
「大丈夫ですよ。一週間傷一つ付いてない、優秀なボディガードですから、私」
「自分で言うかい。面白い嬢ちゃんだねえ」
けらけら笑う緑川に、苦笑いをする義景。だが事実一切傷ついていないのは確かだった。ストッキングの一枚すら破れていない。彼女の持つ『異常』の一つの賜物だが、こんなところで役に立っても仕方ないと言えば仕方がなかった。一週間前から自分の人生は少し変わり始めているが、それが終わればもう元通りだ。十五歳のちょっと衣装持ちの少女に戻る。それは良かったのか悪かったのか。少しぬるま湯に浸かりすぎているかもしれない、終わりがあることを忘れるぐらいには。
「私がいる限り、義景様には傷一つ付けさせませんよ」
「簓ちゃんも傷付かないでね。これは雇い主としての命令……いや。お願いかな」
死んじまえ。
化け物。
お前の所為で。
わっと響いて来た幻聴に、簓は足を止めて頭を抑える。ここは大丈夫、まだ。ばれていないし、役立っている。企業秘密。いつまで続くか分からない細いロープの上で、サーチライトに照らされているような気分だった。同じく足を止めて振り返って来た二人に冷や汗がばれないよう、へらっと笑って見せれば、二人は訝しげな顔をしていた。大丈夫。まだ、大丈夫。この人達と一緒に居られる。少なくとも一か月ぐらいは、自分の『異常』を隠せるだろう。裁判には出廷しない程度のところでおさらばすればいい。ああ、でも、その日が過ぎても一緒に居たいなあ。こうして出勤と退勤を繰り返して、いたいなあ。思う心は一切外に見せず、簓はまた歩き始める。
「ちょっと頭痛がしただけです。気にしないで下さい」
「なら、良いけどよ――真っ青だぜ、嬢ちゃん」
「え、」
「具合が悪いなら今からでも戻るかい? 家に」
家に戻る。まるで居住者に向ける言葉だ。なんだか泣きたくなって、だが先に出たのは鼻水で、きちんとアイロン掛けされているハンカチで口元を抑える。簓ちゃん、と呼ばれてはい。と返せば、眉を寄せた義景に見降ろされて肩をぎゅっと掴まれていた。痛いほど。心が、痛いほど。
「簓ちゃん、本当に体調不良なら、ボディガードなんかしている場合じゃないんだよ。君、街に来るまで随分ひどい目に遭ってる。だから麻痺してるところがあるのかもしれない。でも、どうか今は自分の身体を大事にして」
「本当に大丈夫ですってば、義景様。夢見が悪かっただけかもしれませんし、この鼻水は遅れてきた花粉症ですよ」
「簓ちゃん、」
「さ、速く社に向かいましょう。時間ないですよ、もう」
「そ、そう? って本当だ! それじゃあ緑川警部、僕らはここで失礼します」
「おう、気を付けてなー」
ひらひら手を振る刑事は二人が見えなくなったところで、しゅぼっと電子タバコを一嗅ぎする。
「本当……気を付けてな」
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