第8話
少し遅い夕食――ロールキャベツだった、未知の食物である――の後に風呂を貰い、しっかり鍵を閉めてからバスタブに入ると、少し肉付きが良くなりあばらの見えなくなった腹が見えた。スーツが入らなくなったら困るな、と思うが、どうせ痩せぎすだったから少し大きめな物を買ったので、まあ大丈夫だろう。長く居られると良いな、思いながら髪を洗いボディブラシで身体を洗う。外国物の推理小説を読んでいて良かったな、と思ったのは、祖父の家とまるで違う浴室スタイルからだ。好きな探偵はエルキュール・ポワロ。あれぐらい自尊心が高ければどんなにか生きやすいだろう。劣等感の塊だった自分は少しほぐれてきた気がするけれど、それでもあんなにはなれないだろう。それに自分はボディガードだ。探偵なんて面倒くさい身分じゃない。胡散臭さはあるが、義景も山本も受け入れてくれている。こんな場所にずっといられたらどんなに幸せだろう。どうせ無理な妄想をしながら。ボディブラシを掛ける。髪だけぐしゃぐしゃと混ぜるように拭くと、撫でられた感覚が蘇った。人に撫でられたのはまだ数回、嬉しい思い出である。忘れない様にしよう、とジャージに着替えドアの鍵を開けると、義景が座り込んでいた。
正確には座り込んで眠っていた。いくらボディガードがいる生活だとは言っても、狙われている本人は気が気でないのだろう。起こすのも気が引けるが、こんな所でバスローブを抱いて寝ているよりは風呂に入れた方が良いだろう。と言う判断で、簓は義景を揺り起こす。
「義景様、義景様」
「ぅん……」
「お風呂空きましたよ、入って下さいな」
「んー……」
風呂に入っていたのは二十分ほどだったと思うが、それでも待たせてしまったらしい。ふにゃふにゃした声で返事をされると。ぷっと笑いが漏れた。それに気付いて、はっと目を開ける義景は、まるで少女のようで。
「っごめん寝てた!? 変な寝言とか漏らしてなかった、僕!?」
「大丈夫ですよ、聞いてても聞き流しますから。ほら、早い所お風呂入って下さい。冷めちゃいますよ」
「う、うん! ほんとごめん」
「謝ることじゃありませんってば。私だって社で転寝ぐらいするんですから」
「そうなの?」
「そうなのです。だから早く入って、温まって下さいな。それからドライヤーしてお布団。夢のような夢が見れますよ」
「だと、良いんだけれどね……」
少し暗い顔になった義景に違和感を覚えながらも、その背中をバスルームに押し込む。かちゃん、と鍵が掛かる音を確認してから、簓は短くなって乾きやすくなった髪から落ちる雫をジャージ越しに受け、ぴゃっとなる。どうしたことだろう。そんなに疲れていたのだろうか。風呂で眠らなきゃいいな、などと思いながら簓は部屋に戻ってドレッサーに向かった。隈もなく、健康的な肌つやを持っている少女がそこには映りこんでいる。毎日三食食べてるとこうなるのか。朝食はなかったし昼食は弁当、夕食ぐらいしかまともに摂っていなかった頃とは大違いだ。いつの間にこんなに健康になったのだろう。欠食児童の頃に比べると、本当に冗談のようだった。
冗談のように幸せな生活。多少の危険も『異常』が察知してくれる。自分は傷つかない。あの頃は疎ましく思っていたそれも、今は人を護れる力だと感じられている。それは嬉しいことだった。この『異常』が役に立つ時が来るなんて、まるで夢のよう。だがいつかは訊ねられるだろう。何だそれは、と。今はまだ企業秘密で通っているが、裁判などになって出廷することになったら言わなければならないだろう。この秘密のすべてを。自分から何もかもを奪って行った、この秘密の『異常』を。
来なきゃいいのに、そんな日。思いながらドライヤーのスイッチを切って、櫛を通し――豚毛の良い櫛だった――これも買ってもらったものである――、ベッドに横たわって少しほつれたトートバッグを抱きしめる。全財産はこの中だ。ここでの暮らしが給料だ。いざとなったらこれ一つで追い出されるのだから、しっかり守らなければ。思いながら簓は眼を閉じる。
知っているような知らないような女の声の罵声を聞きながら、彼女は眠るのだ。
自分を虐待していた母の声を、それでも忘れられずに。
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