第7話
ボディガードの仕事と言うのはいざという時さえ来なければ暇が多かった。ただ座り、仕事を眺め、弁当を食べて。また仕事を眺め、帰りを警護する。いざという時と言うのが起こらなければ転寝しそうなほど退屈だった。
なので始めたのはコピー取りからだった。それから帳簿の整理、これはPCに慣れていなくても検算していくだけだから電卓があればどうにかなる。たまに義景の仕事を覗き見れば、回りくどい言い方で要約すると『新しい社長になります、これからもよろしく』と書いている事ばかりだった。面倒くさくないのか、訊ねたがそれが仕事というものだよ、とどこか胸を張って言われる。やはり昇進は嬉しいものなのだろう。若さと童顔さに蔑まれようと、あと五年もしたら良い男になる。誰も何も言えない若社長になるまで警護すること、それが簓の仕事だ。何年経っても、何年かかろうとも。それにこちらもキャリアが積める。乙茂内商事と言えば誰もが知っている老舗で、全国に支社が展開されている、いわば優良企業だ。形だけでもそこに居たとなれば、履歴書の空欄は怖くない。ただそれも数年単位でなければいけないから、刺客にはもう少し頑張ってもらいたいところだが。
と、キラリとしたものが見えて次に乾いた音がした。窓に背中を向けて座っている義景の元に走り背中に入って『異常』を発動させれば、自分の胸に向かっていた弾丸は止まり、ガラスの割れて落ちる音がガシャンと響く。部屋の中がざわざわする中、椅子を返した義景だけが何事もなかったように仁王立ちになっている簓の背中を見つめる。
「簓ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です。すぐにガラス屋を呼びましょう。この気候でもこの高さは少し冷えますから」
「そうだね、そうしよう。ところで何が起こったんだい?」
すっとぼけて部下に指示を出す、食えない奴だな、と苦笑いして簓は胸の前で止まっていたライフルの弾丸をハンカチ越しに指に取る。
「ライフルで狙撃されたようです。警察に線状痕を調べて貰えば前科から犯人が割れると」
「……その弾も、企業秘密?」
「です」
「そっか。じゃあまた緑川警部に来てもらうとしようかな」
ざわざわと人の声が大きく聞こえるのは被害妄想だろう。よくあることだ。石を投げられていじめられている下級生の前に立ちはだかった時だって、石が当たらないことに慄いて逃げて行く子供と一緒にいじめられていた子供にも逃げられた。そういうものなのだ。逃げないで、驚かないでくれる人がいる。それがこんなにも嬉しいとは知らなかった。
ガラス屋と警察はほぼ同時に到着した。サッシを取ってきれいなガラスと交換し、割れたガラスは証拠物件として鑑識に採集されていく。証拠品のライフル弾をあの眉の太い警部に渡すと、ひゅぅっと口笛を吹かれた。どういう意味なのだろう。首を傾げると、苦笑いで返される。
「窓しか割ってないからきれいに残ったもんだ、弾頭も線状痕も。しかし連中も手段選ばなくなってきたねえ。坊ちゃんの社長就任は、正確には明後日だろう? なりふり構っていられなくなって来たってことか。ちなみに今の社長室は」
「防弾ガラスを入れています。それと警部までいつまでも坊ちゃん扱いはやめてください……」
けらけら笑って電子タバコを一嗅ぎする緑川警部に、あの、と簓は声を掛ける。
「義景様と警部殿は古い付き合いなんですか?」
「あー……まあね」
「金持ちのボンボンだったからねえ、よく誘拐され掛かってはコンビニなんかから呼び出されたもんだよ。最近は流石になくなったと思ってたらこの騒動だろう? いや懐かしいねえ、坊ちゃん」
「だから坊ちゃんはやめてください、オジサン」
「俺はオジサンって言われる年になったけど、お前はいつまでたっても坊ちゃんだよなあ」
「……実況検分とかしなくて良いんですか?」
終わらないやり取りに思わず突っ込みを入れてしまうと、おうそうだな、と緑川はやっと本来の仕事に戻る。
「気付いたのは嬢ちゃんで良いんだよな」
こっちも嬢ちゃんはやめて欲しかったが、仕事には関係ないことまで突っ込むのは躊躇われはい、と返事をする。
「坊ちゃんはこう、窓に背中を向けて座ってた。当然気付かない。嬢ちゃんにはどうしてわかった?」
「太陽光にキラッと反射したのが見えたんです。向こうのビルの屋上でした」
「それは監視カメラと社員IDで確認するとしよう。しかしよく間に合ったねえ。弾はどうやって止めたんだい?」
「えっと」
流石に警察に対して企業秘密は通らないだろう。しどろもどろになっている簓の口を、後ろからぽふんと塞いでくれたのは、義景だった。
「それは僕のボディガードの企業秘密です。彼女それで食べて行ってるので」
「お前んちでか?」
「そうですよ。新しい家族が増えました、という奴です」
「そいつぁちょっと違うと思うが……まあいい。と、嬢ちゃん社員証貰ったのか。ちょっと確認させてくれるか?」
「はい」
首にかけていたそれを見せると、緑川はスマホのカメラでカシャ、とロートルな音を出す。
「……ほんとに十五歳だったんだな、心はいつでも十五歳とかじゃなく、今年で十六……まあ結婚できる歳ではあるが、そうなったら」
「お祝い期待してますね、オジサン」
「俺の息子かお前は」
けらけら笑い合っている二人に、一旦隅に集まっていた社員たちもやがて仕事に戻って行く。狙われているのが自分でなければ恐ろしいこともないだろう。残業になるのも嫌だから、戻って行く。少し薄情に見えたが、それが彼らの仕事なのだ。それにしても久し振りに『異常』な状態になったので、小腹が空いた。きゅる、と腹が鳴ると、笑った緑川にほれとべっ甲飴を渡される。喫煙者でもこんなもの持ち歩くのか。と思っていると、迷子の子供向けだけどな、と笑われる。別に迷子じゃないし子供でも――ないか?――分からない――、とりあえず包みを解いて舐めてみると、流石砂糖の塊、甘かった。祖父がいない時にこっそり砂糖を舐めていた時とは大違いの甘さだった。へにゃっと笑うと切ったばかりの髪をがしがし撫でられる。悪い気分ではなかった。
「それで嬢ちゃんはここで何の仕事してんだ?」
「コピー取りと帳簿管理です」
「そりゃ大事なことだ。変なもの探り当てろよ、俺の携帯番号はこれだ」
渡された名刺には、緑川武と書かれていて、署の番号、内線番号、携帯番号がそれぞれ書かれていた。
帰りは聴取の所為で遅くなってしまったが、それでも夕飯には遅くない時間に二人は社を出た。まだ明るい街でもまっすぐ家に向かえば三十分といったところだ。そんなに遠くもない道で、ごく自然に道路側を歩いていると、ランプの気配はないのに近付いてくる車がいるのに気付いた。カーブミラーを見ればいつぞやのバンである。空の弁当箱をちょっと、と義景に持たせるときょとんとされたが、多分今はその方が良い。
走り出した簓を、やはりバンは追い掛けてきた。今度は容赦のないスピードである。やっとボディガードの存在が邪魔なのだと気づいた連中は、簓をターゲットにしたようだった。それは良い事だ、クスリと笑いながら簓はわざと転ぶ。しかし『異常』はそんな簓を優しくキャッチしただけだった。それから頭の上を通過して行くバンに少しだけひやりとしながら、軽トラとぶつかる様子を見る。明かりをつけていなかったから気付かなかったのだろう。軽トラには申し訳なかったが、ふうっと立ち上がる簓に手を貸してくれたのは義景だった。その顔は呆れがにじんでいる。
「君って子はどうしてそう無茶をするんだい……本当に轢かれたのかと思ったよ」
「仕事である限り無茶は止めませんよ。それより緑川警部呼ばないとですね。また襲われたって」
「帰ったばかりでお風呂にでも入ってる時間だよ、今は。取り合えず警察は呼ぶけれど。今のは君を襲ってた……よね?」
「多分そうですね。ストッキング破けなくて良かった」
「気にするのはそこじゃないよ……」
「ボディガードとしては面目躍如でしたでしょ?」
「でしょ? じゃないよ、もう」
「あでっ」
頭の上に風呂敷を置かれ、パトカーが来るのを待つ。軽トラに乗っていた老爺は喧々諤々だった。何せぶつかった途端中の人間は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのだから、賠償請求する相手がいない。聞けばバンも盗難車だという。生憎まだ署に詰めていた緑川がやって来たが、呆れた顔をしているばかりだった。
「嬢ちゃん悪い星の下に生まれてんなあ……後見人になってやるから警察学校行かねーか? とっさの判断力が凄すぎるわ」
「私はこの人のボディガードでいるのが今のところベストな状態ですよ。ほら、スーツだって汚さずに済みましたし」
「そこは汚れてても別に良いんだよ。ストッキングも破けてて良いんだよ。いや俺のフェティシズムじゃなく。違うって。坊ちゃん前に立つのやめろ!」
「十五の女の子に汚れてても良いとか……聴取が終わったならそろそろ帰りたいんだけど、良いかなオジサン」
「オジサン呼びに悪意を感じる! いつもの馴染みじゃないものを感じる! とりあえず明日は一度病院に行っとけよ嬢ちゃん、頭ぶつけてたりしたら大変だからな! じゃあもう、解散!」
ぱっと両腕を上げた緑川に、くすくすと義景は笑いを漏らした。簓はもう一つべっ甲飴もらっておけば良かったと思った。
それは二人が一番距離の近かった瞬間だったかもしれない。
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