第6話

 日曜日は休日だったが、簓は相変わらずリクルートスーツのままだった。会社でもなぜこんな子供が、と言う噂になっていたが、義景も簓も他人の目は気にしない性質だった。一緒に食堂で弁当を食べている姿で何となく納得した人々もいたようだが、基本的には会議の同道や引き継ぎ書類の作成を見守る事しかない。一番危険なのは他社に出向いて改めて挨拶をする時だが、これもこの数日はないようだった。ので、朝のいつもの時間にいつもの服で出て来た簓に、義景は少し驚いて見せる。

「簓ちゃん、今日は休業日だよ?」

「知ってます。ちゃんとした服がこれしかないので着てるだけです」

「いつまでもリクルートってわけには行かないだろう――そうだ、今日は服を買いに行こう」

「へ?」

 思わぬ成り行きに簓が高い声を出すと、そうですね、と山本も同意して見せる。

「奥様の服では大きすぎるでしょうから、スーツを二・三着持っていた方がよろしいでしょう。それから普段着と、パジャマもいつまでもあれでは……」

 ジャージの事だろうか。適度にくたびれていて肌に馴染むのだが。簓は真顔で、でも、と食い下がる。

「スーツ二・三着なんて十万はしますよ。私チビでこの体型ですし。普段着は許されるならジャージで」

「許さない、と言えば?」

「……せめてパジャマに」

「まあ誰も見ることはないんだから、それはそれで良いとしようか。取り敢えずは普段着から。もちろんこれはこっちの要請だから君はお財布を持たなくても良いよ」

「そんなことまでしていただく訳にはっ」

「いいんだよ。マイ・フェア・レディって言う映画は知ってる?」

 知らなかった。

「飾りつけけて遊ぶのも面白そうだ。いつも僕を守ってくれているんだから、このぐらいされておくれ?」

 またあの有無を言わせぬ言い方だ。少し居心地が悪い。うう、と言い負かされた簓は仕方なく、ブティックなどのある繁華街に連れて行かれた。山本と、あの可愛い丸っこいおもちゃのような車で。

 スーツはどうにか身体に合う物を見付け、淡いグリーン、紺青、ダークスーツを買われた。普段着は若い女の子が好きそうなブラウスとスカートを数着。そしてやはりパジャマも洗い替えの時に必要だろうからと買われてしまった。たった二度の働きでこれほど貰ってしまっては気が引ける。これらがあるのだから働け、とでも言われているようで、それは別に構わなかったが、どんどん増える支出とブラックカードの偉大さに簓は恐怖を覚えていた。この人達と対等に見られて良いのだろうか、まったく分からない。少し離れて歩くと、どうしたのかと手を繋がれてしまう始末だ。

 恥ずかしい。その気持ちには慣れがなくて、これから無事に警護をして行けるのだろうかと思ってしまうほどだった。後部座席いっぱいに積まれた紙袋の山。助手席に乗ろうとすると当たり前のように後部座席を開けられる。助手席は一番死ぬ可能性が高いのだという。だから自分がと思ったのに、警護対象にその株を奪われるのは駄目だ。無理やり後部座席に義景を詰め込んで、簓は助手席に滑り込んだ。小柄な身体はすとんとシートに乗って、シートベルトを締めてしまえばこっちのものだ。少しブーイングを漏らした義景は、はしたないですよと言う山本の言葉に黙らされてしまう。聞けば元々山本はマナー講師もしていたらしい。となると、自然と簓の背筋も伸びてしまう。今まで無礼はあっただろうが、修正は出来ないのが他人の印象というものだ。食事のマナーはとにかく多様で難しい。マナーの本を読んで一人ままごとをする孤独な小学生だったから、基本は解るが応用は解らない。

 ストッキング類の下着は流石に自分で買わせてくれたが、その時もカードを握らされたりだからいい加減にして欲しかった。自分にそんな価値はない、叫びたかったが羞恥心というものが人並みにあったので、それは堪えられた。だがこんな小娘一人に一日二十万も買い物をされるのは流石に逆に腹が立った。

「そんなに私に貢がないでください。これ以上は絶対要りませんからねっ」

 助手席で言い張ると、バックミラーの奥では義景が笑い、隣では山本が笑っていた。あの屋敷は暫く女っ気がなかったのだろう。だから楽しんでいるだけなのだ、この二人は。買ってもらったスマホで早速マイ・フェア・レディを検索してみると、この蛮行の意味が少しわかった気がする。だが困っているのだ、こっちは、本気で。家を出ることは義景の散歩ぐらいしかないから服だってそんなになくて良い。下着は自分で買えるから手出ししなくて良い。ストッキングの替えは確かにあった方が良いのだろうが、パンストかガーターかぐらいは自分で選ばせてほしい。そんな当たり前の願いは、美容院で髪を切られるまで続いた。初めての美容院に身体が緊張してしまうと、どうかしたのかい、と訊かれる。一日どうにかなってたのは義景たちの方だろう、思いながらごにょごにょと簓は白状する。

「……美容院って、行ったことなくて」

「床屋さん派だったかい?」

「違って……なんて言うか、あんまり外に出ちゃいけなくて……」

 部屋のガラスも幾度割られたかしれない。悪ガキたちは彼女がいるのを見付けては、部屋のガラスを割ったものだった。最初は怒っていた祖父も、やがて面倒になったのか窓に板を張って釘付けにするようになった。そうなると流石に部屋も暗くなったが、夜目が利くようになったと言っても過言ではない。閑話休題。

 誰かに見付かったらその誰かの迷惑になる。だから外には行けなくて、髪は前髪を時々自分で切るぐらいだった。後ろ髪は引っ張られたり遊びで切られたりしたから長さがまちまちだし、だからこんなおしゃれな店には入れない。

 ぽつりぽつりとそんなことを話すと、両肩を義景にがっしり掴まれた。

「いいかい、ここはもう君がいた薄暗い世界じゃない。髪だって切って良いし服だって選んで良い、自由な場所なんだ。どうかそれを、否定しないで欲しい。今日はたくさんあったから疲れちゃったかもしれないけれど、最後にここで自分を切り落とそう。きっと違う未来が見えて来るはずだよ」

 薄暗い世界。

 そうか、自分のいた場所はそう称されるものだったのか。

 ぱっと目の前が光に照らされたように思えたのは、色づき始めた街灯たちの所為だろうか。

「行ってきます」

「僕も行くよ。なんてったって君は、僕のボディガードだ」

 にっこりと屈託なく笑う義景を見て、初めて簓は自分もそんな風に笑いたいと思った。

 否、笑っていたのかもしれない。

 長い髪がしゃきん、しゃきん、と切られ落ちて行く。まるで過去のように。

 閉じていた目を開ければ、知らない自分がぼんやりと自分を見ていた。

「来週はお化粧かな。でも君が十五歳だとしたらスキンケアセットだけで十分かな」

「詳しいんですね、義景様。前の彼女の影響ですか?」

「いや母親の――ってなんで前の彼女なんだい?」

「今はいらっしゃらないようなので」

「い、今はね! これでも僕は十五で不良と呼ばれて」

「学校でマイナーバンドのコピーをして学祭に出たりなさいましたね」

「ぷっ」

「笑わないでよ簓ちゃん! 黒歴史だよ、忌むべき過去の事だよ! 大体そのバンドメジャーデビューしたんだからね!?」

「二年で女性の取り合いになり解散しましたが」

「だから山本ー!」

 楽しげに揺れる車の中で、確かに簓は笑っていた。

 初めてかもしれないほど、大笑いしていた。

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