第5話

 ――んじまえ。

 死んじまえ。

 お前なんか要らねえんだよ。


 随分昔に遡った夢を見た気はしたが、目が覚めるとすっかり忘れていた。ぼんやりリクルートスーツに手を通していると、こんこんこんこん、と折り目正しい四度のノックがされる。はぁい、と返事をすると、入って来たのは山本だった。

「失礼します。朝食の準備が整いましたので、いつでも食堂へどうぞ」

 ぺこりと頭を下げられたので、簓もつられて頭を下げる。食堂に向かうとまだナイトガウン姿の義景と目が合って、二人とも何故かぽんっと赤くなってしまった。だがこんなことでくじけるわけには行かないと、簓はまとめた髪がずれない程度に頭を振り、おはようございます義景様、とにっこり笑う。有った事を無かった事にするのは得意分野だった。村の暮らしはその積み重ねだったから。

 朝食はポタージュスープにバターロール、ちしゃのサラダにデサートは洋ナシのコンポートだった。昨日の胃薬が効いたものか、今度はゆっくりと朝食を楽しめた。しかし昼食はどうしよう、さすがに弁当箱は持って来ていない。銀行からいくらか金を下ろして菓子パンにでもするか――思ったところで、山本が重箱を二段重ねで持ってくる。

「こちらお二人の昼食になります。少し重いですが、お願いできるでしょうか」

「え、私の分も入ってるんですか?」

「勿論でございます。何か苦手なものがありましたら、すぐに見直しますので、気軽にお申し付けください」

 ボリューミィなのは男の人の食欲を考えての事なのか。それにしても大きなお弁当だ。爆弾みたいだ、と思いながら簓はこれ幸いとばかりに山本に頼みごとをする。

「あの、恥ずかしい話なんですが」

「はい?」

「夜で良いので洗濯機を使わせて頂けますか? 下着はさすがに毎日変えたいので」

 言うと、きょとんと目を丸めた山本がにこりと笑ってくれる。

「ランドリーボックスに入れてくだされば私が洗いますので、どうぞご遠慮なさらず。私は奥様の下着も洗っていた者ですから」

「あ、そっか。そうですよね……じゃあ、申し訳ないですけれどお願いいたします」

 朝食を済ませ、一旦弁当はそこに置き、部屋に戻ってランドリーボックスに下着を入れる。本当はブラウスも入れたかったが、替えがないのでは仕方ない。その内買い物に出なければ。否、その間に刺客が現れたら危険だ。と言うことは服屋に義景を連れて行かなければならない。普段着は構わないだろうが、ランジェリーショップは流石に可哀そうな気がする。

 思いながら食堂に戻り風呂敷に包まれた重箱を持って、玄関に向かう。義景はまだ着替えているのだろう、靴を履き替えて時計を見ると、丁度七時になろうとしているところだった。目覚ましは六時でちょうど良さそうだ、思いながら簓が待っていると、玄関に向かってスリッパ姿で歩いてくる義景が見えた。グレイのスーツに撫でつけられた髪、そこにスリッパが不格好で、思わず笑ってしまうと首を傾げられる。なんでもないです、言って簓は靴に履き替えた義景と共に外に出た。雨は降りそうにないが、澱んだ空は、少し不安を掻き立てるものがあった。

 まあ、

(私の『異常』に関わればこんなもんだよね――)

 簓は諦めていたが。

「天気があまり良くないねぇ。帰りには降っていそうだ」

「そうですね……」

「その時は山本に迎えに来てもらおう。車もいつまでも寝かせておく訳には行かないし」

 玄関から十メートル程度の個所にある門扉を開いて閉じると、庭の隅にカーポートが見えた。高級車の類は解らないが、真ん丸なおもちゃのような車は見えて、それが山本にも義景にも似合わなくて、簓はちょっと笑ってしまう。似合わないかい? と問われて、いいえ、と答えるけれど、一度ツボに入った笑いは中々引かず、簓はくっくっくと笑いながら弁当箱を持ち歩く不審者になっていた。

「今日は会社に行ってすぐに君のIDカードを作らなきゃいけないから、そのつもりでね」

「ID?」

「それがないと会社に入れないんだ。不審者対策の一環だね」

「あ、でも写真とかは」

「スマホのデータで作れるよ。と、そう言えば君、電話は持っているのかい?」

「いえ、縁がありませんで」

「じゃあそれも買いに行こう。僕の名義で構わないかな?」

「はい。じゃあお昼にでもお金下ろしてきますね」

「良いったら、そう遠慮しないで。昨日のお詫びとして取っておいてくれ」

「昨日の――」

 思い出してまたお互いに赤くなる。まったく。まったくこんなことになるなんて。風呂敷をギュっと抱きしめながら、二人は朝のにぎやかな街を歩いて行った。

 今度は車は突っ込んでこなかった。

 相手も一つ、学習したという事だろう。

 義景の後ろに『異常』な『化け物』が付いた事に。

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