第4話
夕飯はビーフシチューだった。とろとろにとろけた肉はスプーンで切れるほど柔らかく、その食感は初めて食べる簓を驚かせた。祖父は基本的に和食しか作らない人であったこともあり、物珍しさにふえー、などと声を上げると、くすりと笑った義景にその好奇心を肯定される。
「牛の筋肉は固くてなかなか火が通らないけれど、根気を詰めればそのぐらい柔らかくなるんだよ。初めて食べるのが山本のビーフシチューとは、君は付いてる」
「今は圧力鍋などもありますから、それほど手間のかかる料理ではありませんよ。坊ちゃま」
六人掛けの細長いテーブルの短辺と短辺に向かい合うように座り合って、二人は夕食を食べていた。確かに美味いし、ジャガイモまでとろとろになっているそれは単純に珍しくもある。しかし半分程食べた所で、簓は腹痛を覚え始めていた。三日間殆ど飲まず食わずだった所為で胃が弱っていたのだろう、身体が肉を拒絶するのだ。こんなに美味しいのに美味しく味わえないと言うのは殺生な話だった。だから顔に出さないようにしたのだが、小さなテーブルだ、すぐに気付かれる。
「簓様、どうされましたか?」
「汗びっしょりだよ、簓ちゃん」
「すみません三日ぐらい飲まず食わずだったんでお腹に来てて……ちょっと黙ってれば大丈夫なので、どうかお気になさらず」
「君が今までどうやって生きて来たのかが心配だよ……簓ちゃん」
ふへ、と笑いが出たのは心配などされたことがないからだ。風邪で高熱を出していても祖父は何もしてくれなかったし、病人食など夢のまた夢だった。だが山本はさっき借りた銀の盆に胃薬を乗せて水と一緒に差し出してくれる。幸せだなあ、と感じれば、涙まで出そうだった。痛みで。へろへろとまず水を受け取ってから、錠剤状の薬を飲む。十五歳未満は一回一錠それ以上は三錠、と書いていたが、はて自分は何錠飲めばいいのだろう。困っているところに、山本はクスリと笑って。
「簓様は中学は卒業なさっていると思われますから、三錠ですよ」
と教えてくれた。
「あ、ありがとうございます。あの、でも、様は勘弁してください。私、そんな立場じゃないので」
「僕を守ってくれる勇敢なナイトじゃないか、簓ちゃんは。今日は二度も助けられている。そう言う立場だと誇ってくれて良いんだよ、簓ちゃん」
「ちゃん付けも出来れば……」
「今までは何て呼ばれてたの?」
「おいとか化け物とか」
「君の生活環境が真剣に心配だよ。でも大丈夫、ここでの君は僕のボディガードの簓ちゃんだ。良いね?」
有無を言わせぬ威力のある言葉に、簓はごくんっと薬と一緒に唾も飲む。水を最後まで飲み切って盆に返すと、山本はにこりと笑った。しわの深い六十代は過ぎているだろう容姿、額は少し後退しているが、後ろ髪はふさふさとしている。髭は口髭だけ整えられて、顎は剃っているようだった。清潔な身なりをしている。そんな人が自分を様付けで呼ぶなんて、数日前は考えられなかったことだった。思うと良い所に遭遇したのだな、と算盤をはじきたくなる。昼過ぎのネットカフェ前からすべてが始まったとは、考えられないぐらい。昼。昼過ぎ。あ、と思い当たって簓はコップと薬を置いて戻って来た山本に尋ねる。
「私が食べちゃったら山本さんのお夕食無くなっちゃったんじゃ……」
きょとんっと目を丸められて、またクスリと笑われる。
「もともと私の分は別ですから、お気になさらずに」
「でも、じゃあどうして二人分のビーフシチューがあるの?」
「ボディガードの方が起居されると伺っていましたので、その都合で二人分の夕食を用意しておきました」
「そ、そーだったんですか……良かった」
ほっと息を吐く簓に柔和な笑みを浮かべる山本は、終始穏やかに二人の食事を見守っていた。
案内された部屋で簓は随分昔買ったトートバッグの中を漁る。下着一式と寝間着代わりの中学のジャージ。それだけを持ってとてとてと向かうのは風呂場だ。仕事が一段落したからお湯を貰っておいで、と言われたので。しかし客間と言うには広い部屋だったし天蓋付きのベッドなんて図書室の絵本でしか見たことがなかった簓には、逆に落ち着かないものだった。とりあえずお風呂、と探していると、ラベンダーの香りがする。バスオイルだろうか、それを辿って行くとバスルームの看板が付けられた部屋が見つかる。中学の英語で習ったことには、英語圏ではトイレもバスルームと呼ぶらしいので少し用心しながら入ってみると、そこには巨大な浴槽と脱衣籠が並んでいた。
外国のお風呂だ、などと思いながら簓はリクルートスーツを脱ぎ、巨大なバスタブに身体を沈める。ラベンダーの匂いが充満していて、それはまるで天国のような心地だった。身体を洗うのも四日ぶり、バスタブの中で身体に湯を纏わせて行くと心地良く、はあーっとため息が出た。偶然に偶然が重なったが、いい就職場所を見付けられたようだ。うっとりとしていると、かちゃりと音がしてドアが開く。
居たのはバスローブを持った義景だった。
鍵は掛けるものではなく掛けられるものだったので、簓はすっかりそれを忘れていたのだ。
一秒。目が合う。
二秒。義景が顔を赤くする。
三秒。ばたんっと扉が閉じられる。
「どっどーして鍵ぐらいかけてないのかな君は!?」
「鍵は掛けられる方だったんで……すみません。すぐ出ますね」
「いや、ゆっくりして良いよ、ゆっくり! その、ごめん、さっき君にお湯を使うよう言ったのすっかり忘れてた!」
「私も屋敷の中で迷ってたんでお互い様ですよ。じゃ、出ますねー」
少し名残惜しいと思いつつ髪を適当に洗い、男の人もコンディショナーって使うのかなどと思いながらいわゆるところの芋ジャージで出て来た簓に、まだ赤い顔をしていた義景が目を落としてくる。
「その格好だと本当に学生に見えるね……」
「まあ、四日前まで中学生でしたんで」
「四日ッ……単に幼く見えるだけじゃなかったのか、君」
しまった言ったらまずかっただろうか、ぽふっと自分の口を抑えて上目遣いに見上げてみる。髪を伝って零れる雫が絨毯にぱたん、と落ちた。困ったような顔をする義景に、ツキンと胸が痛むのを感じる。
「それじゃ、時間外労働になっちゃうね。早くお休み。部屋にはドライヤーもあるから髪はちゃんと乾かしてね」
濡れた頭をポンポン撫でられて、簓は一瞬だけ心臓が大きく響くのを感じる。これはもしかして不味いことじゃないだろうか、相手は十も年上だから子供扱いされただけだと言うのに、これは。しかし簓を子ども扱いしてくれた初めての大人だ。化け物扱いしなかった、初めての大人。屋敷に来てからセレブリティ的カルチャーショックは続いていたが、これは。これは、不味く、ないだろうか。
ラベンダーの匂いのするリクルートスーツを抱きながら、ぱたぱたと走って行く。自分の部屋は、ときゅるきゅる道のりを逆再生すれば、すでにそこにはネームプレートが下げられていた。SASARA HARIMOTO。ローマ字ぐらいは流石に読める。明日は何時に起きたら良いのだろう。徒歩通勤できる距離なら六時ぐらいだろうか。枕もとの時計の目覚ましを合わせて、ぽんとスイッチを押す。それからドレッサーの前に座り、髪を乾かした。十五歳。何もなく世間にほっぽり出されるには少し早いと思っていたが、そうでもないらしい。スポブラの上から胸を掴む。栄養不足なこんな身体、誰に見せても構わないと思っていたのに、今は次のお風呂では鍵を掛けようと思っている自分がいる。これは良い事なのか悪い事なのか、分からない。
とりあえずベッドに横になると、冗談ではなく綿菓子のような布団で、簓はぐっすりと眠ってしまった。
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