第3話
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「いい加減坊ちゃん扱いはやめてくれったら、山本。こちら今日からボディガードになってくれた針本簓さん。簓ちゃん、彼は執事の山本だ」
「ボディガード……ですか? それでしたら先ほど派遣会社から来たという方が応接室にお待ちですが」
「え?」
いきなりピンチである。メイドを十人囲うより執事一人養う方が権力がある証だ、とは図書館の本に書いてあったことだ。家に帰りたくない時はいつも図書館に転がり込んでいた簓は、そんなどうでも良い知識をほじくり出す。主人を諫めることも出来る上級職。一生独身で通す覚悟をしている。それだけの忠誠を、主人に捧げている。故に温情判決は期待できないだろう、偽ボディガードに。
義景が応接室と思しき部屋にかつこつと足を進めて行くのを、のろのろ追いながら、簓は儚かった一瞬の夢を捨てる。こんな家で暮らしてみたいと言う贅沢すぎた夢を。
そして両開きのドアを開けると――
「あっ」
「? 簓ちゃん? どうかしたの?」
サングラスに黒いスーツ、特徴的な撫でつけられ方をされた髪は先ほどの車で乱れた物を無理やり直したのだろう。
男はバンで義景を追い回していた首魁だった。
「義景様あいつです! さっきバンで義景様を追い回してたの、あいつ!」
「何?」
義景の眉が寄る。
「な、何のことです? 何の証拠があって私に――」
「……社章が付いてるよ」
「なっ」
「もともと社員だったんでしょ。それで上の人に義景様を殺すよう申し付けられた。そうでしょ。点けっぱなしの社章が気にならないぐらいの幹部。社に問い合わせてみれば判るよ。それに私って言う目撃者がいる。他にも何人か連れていたね? 一度轢いてから更にとどめを刺すつもりだった。違う? バンの番号照会でもしようか? どこかの監視カメラには映ってるよ」
立て板に水とばかり、簓が語ったのは妄想だった。そうすればこの家に居られるという、妄想。だが事実男のスーツには社章が付いているし、バンで運転していた男であるのも事実だった。そこだけは嘘をついていない。あくまでそこだけは、だが。だが男はぶるぶると身体を震えさせ、懐に腕を突っ込んだ。
ナイフか銃は解らないが義景に対する害意を感じた簓はさっとその前に身体を閃かせた。
果たして男が取り出したのはナイフで、簓のもとに向かって来る。簓の『異常』はそれに反応して、きらりと小さな光を発し――
向かってきたナイフを、肌に辿り着く前にねじ切っていた。
せっかくのスーツが汚れなくて良かった、ほっとした簓の肩を掴んだのは義景だった。
「簓ちゃん! 大丈夫かい、怪我は!?」
男は茫然とへたり込み、簓の方はケロッとしたものだった。害意に慣れている彼女はこの程度では危機感を覚えない。むしろ慌てふためく義景の様子がおかしくて、また彼女はぷっと笑ってしまう。
「笑っている場合じゃないよ! もう少しで君が怪我をしていたかもしれないんだ! 君はもっと危機感を持つべきだ!」
「義景様の為にも?」
「君の為にだよ!」
きょとん、とした顔で見上げる義景は本気で怒っていた。本気で心配していた。簓にはそれが少しばかりこそばゆくて、やはり笑い飛ばしてしまった。
「大丈夫ですよ、私、ボディガードですから」
「それでも、自分の身体は大切にして。いいね? でなかったら君を屋敷から追い出すよ」
おや、と簓は思う。
「私、この家に住んで良いんですか?」
「勿論さ。でなきゃボディガードの意味がないだろう? でもそれはあくまで自分の命を大事にした範囲でのことだよ。良いね簓ちゃん。そしたら僕は君の保護者にでも保証人にでもなってあげるから」
ゴホン! と咳払いが響いた。
廊下にいたのは山本だった。
手に持った銀の盆の上には、電話機を乗せて。
「坊ちゃま、警察には連絡を付けておきました。すぐにでもいらっしゃるそうですが、パトランプは消して頂くようお願いしておきました。乙茂内家でこのような刃傷沙汰があったとあっては家名に傷をつけますので。それから簓様」
「は、はいっ」
「坊ちゃまを守って下さり、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げられ、ただ衣食住の保証が欲しかっただけの簓は照れた顔になってしまう。彼女もぺこりと頭を下げると、山本はにっこりと笑い、
「さて、ではティータイムにしましょうか」
二人を現実に引き戻した。
一人暮らしなのかと尋ねれば、義景は少し困った顔をして、人材派遣会社経由の資料で僕を調べなかったの、と聞き返されてしまう。食べ方だけは知っていたティータイム、きゅうりのサンドイッチをぽりっと齧ったところでしまったと簓は身構えてしまうが、義景は同じことを繰り返すのが気にならないようだった。
「父母も一緒に住んでいたんだけど、今は外国暮らしなんだ。母さんが余生は音楽と暮らしたいって、ドイツにいる。今は月に一度か二度電話が来るぐらいかな、時差を無視するんだから困った人たちだよ。でも仲は良いよ。このスーツを仕立ててくれたのも父さんだしね」
「坊ちゃま、何度も言いますがスーツが汚れるのでティータイムはお召しを変えて欲しいと」
「少しの間さ……あ」
義景のズボンに傾いたスコーンのいちごジャムが塊で落ちる。はあっと溜息を吐かれると、リンゴン、とドアチャイムが鳴った。おそらくは警察だろう、自分も話を聞かれるかもしれないから早くこの難敵サンドイッチを食べてしまわなければ、とばかりに、あむあむあむっと簓が口の中に突っ込むと、山本がくすくす笑いながら簓のティーカップに紅茶を足し、それからゆっくりと玄関に向かって行った。マイペースだけどよく気が効く人だな、などと簓は思う。年の頃は祖父と同じぐらいだろうに。
「しっかしこのナイフのねじ切れ方はすげえな」
所轄から派遣されてきた眉の太い刑事の言葉に、簓は口をつぐんだ。胡散臭そうに十五の少女を見る目は鋭く、場数を踏んだ貫禄がある。だからこそ気になるのだろう。執事と主人と、初日ボディガード。しかも中学を卒業して四日目だ。後ろ暗い所が山ほどあるだけに、貝に徹することにするのだが――
「お嬢ちゃん、簓ちゃんだっけ? ちょっとここに立ってみて」
「は、はい」
先ほどまでの立ち位置に戻った簓に、今度は黒服の位置に立ってこちらにペンを向けて来る。とす、っと刺さると、ペンが折れた。山本から借りていた銀のお盆を腹に仕込んでいたためだ。これをお使いください、と渡してくれたのはありがたかったが、何をどこまで見聞きしたのか得体のしれない老爺である。
「ふん。やっぱ良いシルバー使ってると違うのかねえ」
むーっと刑事が現場検証をする。犯人はすでに車に連れられて警察署の中だろう。
「しかしお嬢ちゃんはよくこれが例のバンの運転手だって分かったもんだねえ」
「あ、昔から記憶力は良いんです。色々あって」
色々とは色々だ。自分をいじめてくる相手が見えたら振り切るために必死で逃げたし、恨みつらみが堪らないように調整して嫌がらせを受けたりしていた。俺達の昔が嬢ちゃんだよ、と刑事は笑って、電子タバコを一口吸う。まだ未知の物であるそれにおおっと驚いて見せると、一口やるかい? と問われた。さすがに首を横に振ったが、向こうも未成年者の喫煙なんて本気で勧めているわけじゃないだろう。はっは、と一つ豪快に笑って、彼は屋敷を出て行く。
「それで坊ちゃま、今日の帰宅は随分早いようでしたが」
「ああ、会議の資料を作らなきゃならないんだった。夕飯まで書斎に近付かないでくれ。簓ちゃんはボディガードだから一緒にいてもらうけれど、あんまりちょこまかしないでね」
「人を鼠扱いしないでください、坊ちゃま」
「そうですよ、坊ちゃま。今日は危ない所を助けて頂いたのですから、もっと丁寧に」
「サラウンド坊ちゃま責めか……二十五歳にはキッツいものがあるよ」
書斎は経営学や心理操作など多岐に渡る書物が所狭しと並べられていた。と思ったら小さい頃に大流行したファンタジー小説が全巻並んでいたりして、なるほどこれはちょこまかしたくなるな、と簓は探し物をする。しかし見付からない。おかしい。年頃の男の部屋にも枯れたおっさんの部屋にもありそうなのに。部屋の真ん中で沈思し始めた簓が流石に気になったのか、義景はどうしたんだい、と簓に声を掛ける。
「ないんですよ」
「何が?」
「エロ本」
PCの横からワイヤレスのマウスを落として、義景は真っ赤になっている。
「今はエロサイトの時代ですしね、時代って移り変わりますよね」
「うんうん頷いてるところ悪いけれど、社用のPCは基本的にスタンドアローンだよ」
「じゃあ寝室に?」
「プライベートで使うのはそっちだけど何にもないから! やましい所は! ……簓ちゃん」
「はい?」
「詮索好きなおばちゃんみたいなこと聞いて来るけど、君はどうなの?」
「他人とまともに関わり合いになったのって今日が初めてなんで。ついでに言うと十五歳と言えば思春期ですよ思春期。官能小説とかあったら読んでみたいものじゃないですか」
「amazonのお気に入りリスト使って……」
「いえ別にないなら読まないですよ。私清楚系なんで」
「簓ちゃんは清楚系じゃない……」
「何系ですか? 義景様から見ると」
「肉食系かな……」
「まあ肉が食べられるのは良い事ですよね」
「そうだね、良い事だね」
「ちなみに私の中で義景様は隠れ肉食系です」
隠れ? と問い返されて、簓は笑う。
「危ない仕事を任されたのに防御のためのボディガードしっかり雇って、全然引く気がない辺りです。普通は車で追い掛けられたらその時点でアウトですよ。だから、隠れ肉食系」
「なるほど、考えたことはなかったけれど、確かに今の僕は一切引く気がないな。会って半日の人間を、そこまで分析できるのはすごいことだよ。簓ちゃんは少し怖いのかもしれない」
「男の一人暮らしに厄介になる私も結構怖いですよ? 生娘ですから」
拾ったマウスがまた落ちて、簓はくすくす笑った。
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