第2話

 三日後。

 街に着いてハローワークに向かえど向かえど、中卒資格特技なしにはつらいものがあった。せめて英検でも取っておけば、いや簿記でも受けていればオフィスワークに使えただろうに、祖父はそう言ったことに余分な金を掛けてくれるとは思えなかったのだ。言ってみれば黙ってお金だけ出してくれたかもしれない。今更の事だ。後悔役立たず、はあっと溜息を吐く簓は新聞紙と段ボールで簡易に作った寝床からのそりと起き上がる。幸い服が汚れていないのは、『異常』に含まれるところだろうが、今回はそれに感謝した。とりあえず寝床を見付けなければと最寄りの不動産屋に向かうと、未成年過ぎて断られる。ネットカフェでウィークリーマンションを探してみたがなしのつぶてだった。元々郊外にある街なので、不動産の物件数も少ない。はあっと息を吐いてネットカフェから出ると、人通りはほとんどなかった。否、一人。慌てて駆けて来る男と、それを追い回すようにする白いバン。ピン、と危険の影を察知した簓は、思わず声を張り上げていた。

「逃げて!」

 次の瞬間、男は簓の隣にいた。走り出そうとしていた恰好を慌てて直して、自分が走っていたバンの方に目を向け、唖然としている。

 バンが急ブレーキをかける音を後ろに、簓は男の手を握って裏路地に入っていた。男は足をもつれさせながら付いて来る。暫く走ったところで、ぜえぜえと息が切れたのは簓の方だった。ネットカフェのコーヒーしか飲んでいない三日目では、それが限界だった。

「えぇと――君は?」

 少しだけ息を上げた男は、しゅっとした頬に鼻筋の通った色男だった。自分の傍に引き寄せた時は単純に危険だと判断したからだから気にしていなかったが、というか気にする余裕がなかったが、中々見目麗しい男である。社章を見れば世間知らずの簓でも知っている大企業の物だった。うまくすれば掃除係ぐらい紹介してくれないだろうか、だがその前に色々と説明をしなければならない窮地に立たされている。

「あの、えっと」

「リクルートスーツを着るには少々幼すぎないかい? ああ、でもそんな事はどうでも良いか――助けてくれたのは、君だね?」

「は、……はい」

「と言うことは君は僕の新しいボディガードなのかな?」

「へ?」

「違うのかい?」

 ボディガードで片付けてしまえる男の度量に何だか簓はプッと笑いが出てしまった。きょとん、としている男に、はいと頷くことで身分詐称をしてみると、やっぱり、とほんにゃり笑われた。人の良さそうな、どこか間抜けな笑い方だった。

「それにしてもまるで奇術だったね。どうやってあんなことを?」

「企業秘密です。……で、通してもらえますか?」

「もちろん、命の恩人の言うことだ。通すも通さないもないさ。ああ、話は通っていると思うけれど改めて。僕は乙茂内義景おともない・よしかげ。君は?」

「針本簓です。改めて、よろしくお願いします、ご主人様。ところでご主人様は――」

「ご主人様はくすぐったいなあ、義景で良いよ、簓ちゃん」

「では義景様、義景様はなぜあのような輩に追われていたのです?」

 見えた感じ、あまり品行方正な相手には思えなかったものだが。きゅるきゅる記憶を巻き戻してみると、運転席の一人だけが黒いスーツにサングラスと言うそれこそボディガードのような男だったが。うーんと考え込んでいると、義景も考え込んでいるようだった。

「多分、お家騒動の事だと思う――かな」

「お家騒動?」

百合籠ゆりかごグループの会長が亡くなったのは知っているだろう?」

 テレビも見る権利がなかった簓には知りませんとしか言えなかったが、そこは口をつぐんでおいた。大事な就職先がなくなるところだ、それは。新聞も祖父は読んだらすぐに紐でくくってしまう性質の人であったし。しかしお家騒動――百合籠グループ。なんとなく見えてきたおぼろな像は、義景の補強で鮮明になる。

「僕には本社社長のお鉢が回って来そうなんだ。それを妬んだ誰かの刺客、と言うには言葉が古いけれど、まあ刺客だね。殺し屋と言っても良いかもしれない。それが差し向けられているんだ。会長は僕の曾お祖父さまに当たる人で、他の孫やひ孫にも重要なポストが当てられているのだけれど、流石に本社社長が二十五歳の若造と言うのは気に入らない一派もいるらしくてね。うっかり徒歩通勤も出来なくなりそうだったから派遣会社にボディガードを頼んだのだけれど、それが君なんだろう?」

「え? は、はいっそうです義景様」

 いきなりボディガードに話が戻って来て少し舌を噛みながら簓はこくこくと頷いた。二十五歳、と言う割に顔が若いのも原因の一つではなかろうかと思われるが、そんな指摘は無意味だろう。無意味なことはしない、無駄だから。

「ところで簓ちゃん」

「はい?」

「ここ、どこ?」

 適当に路地を走って来ただけだったので、まったく帰り道を考えていなかった。

 幸い義景の持っていたスマホの地図機能で帰ることは出来たが、そこは――

 家と言うよりも、屋敷だった。

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