針本簓は傷付けられない
ぜろ
第1話
えーん……えーん……
「うるさいわこの疫病神が!」
祖父の杖が孫を打つが、それは直前で止まってしまう。祖父がどんなに力を込めても、それは孫の肌に届かない。無意識の防御だ。しかし、常人には出来ないレベルの。ついに杖がぼきりと折れ、振動に孫の少女はまた大きな声で泣き出す。ぶつけられるのは言葉だけだと分かっていても、祖父の罵りは止まらなかった。それが肌を傷付けず心を傷付けたのは、言うまでもないが。
「お前が生まれたせいで息子も娘も逃げちまった! お前なんか流れちまえば良かったんだ! 村の連中に嫌われるのだってお前が原因じゃないか! 自業自得に泣きじゃくりやがって、同情でも引こうと思ってるのか? この村にお前を可哀想がる人間なんていねえよ! お前のせいだ、全部お前のせいだ! この化け物! 十五になったらお前みたいなやつの面倒はもう見ないからな! 一人で生きて行け! 二度と村に近付こうとするんじゃねえ! 良いな化け物! ったく、杖が何本あっても足りゃしねえ……本当に疫病神だよ、お前は」
いっそう声を上げそうになる少女は、それを堪える。祖父の機嫌を損ねてしまえば、食事や風呂と言った生活必需の事ですら断ち切られてしまったからだ。少女は十四。十五歳になったら捨てられる。義務教育の間だけでも面倒を見てやるのだから、俺は仏か神だ。それが祖父の口癖だった。少女には悪魔にも等しいが、それでも頼れるのは祖父だけだった。父母は二人で新しく門出をして以来、村には寄り付いて来ない。興信所を頼むほど家に蓄えもない。祖父の年金だけでは心許ない生活の中、少女はやっと泣き止んで鼻をすする。
生まれた時から彼女は、『正常』ではなかった。腹の中で一度心臓が止まったことがある所為かもしれない。しかしそれも『かもしれない』程度の事で、少女には何ら興味のないことだった。写真に写っている夫婦はなぜ、自分を捨てて行ったのか。託児所や保健所でもなく祖父の家に。まるで他に害が及ぶのを恐れるかのように、少女は置いて行かれた。生後三か月程度の頃である。勿論記憶はない。ないが、二人にとって不都合なことをしたのは確かなのだろう。
『正常』な振りをしても、狭い村には噂が広がりやすい。何故彼女が捨てられたのかはすぐに近隣の知れることとなり。学校中でも誰もが知っていた。『異常』なのだと蔑んだ。暴力に走られたこともあるが、先ほどと同じ自己防御で怪我をしたことはない。それが余計に不気味がられているのだろうが、痛いのは嫌だった。心も体も、痛いのは怖かった。友達はなく、授業では当てられたこともない。教師にも『居ない存在』と思われてしまうのは、悲しくて辛いことだった。
十五になって村を出たら何か変わるだろうか。誰かに突然殴りかかられることも、ジャージを隠されることも、なくなるだろうか。ジャージは確実になくなる事はないだろうが、それでも村の外にはチンピラや不良がこれまでよりたくさんいるのだという。金目当てに売られるかもしれない恐怖が、少女には一番怖かった。『正常』な振りをしよう。だがオートマティックに発動してしまう場合もある。誰かの鉄拳制裁が届かなくて、またいたたまれなくなるのも嫌だ。いっそ殴られていたいとも思うが、きっと彼女の『異常』はそんな事など構いもせずに発動するだろう。
一人で生きて行くためにはどうしたら良いんだろう。在宅ワークや手作りのものを売って生計を立てればいいのだろうか。手先はあまり器用ではないから、すぐに馘になって終いだろう。どうやって生きて行けばいいのかを聞く相手もいない。教師には避けられ、同級生からは孤立している。どうしてこんなことになってしまったのだろう。一度止まったならいっそもう二度と動かなければ良かった心臓の上に両手をあて、少女は深呼吸をして落ち着かせた。祖父の罵りは慣れた事だ。慣れで言えば疎外も害意も慣れたものだが、慣れたくて慣れた訳でもない。当然だ。傷付きたくないのは、当然だ。
どうして生まれて来てしまったのだろう。思春期の良くある悩みだが、彼女の場合はより深刻で危機的だった。死んでしまおうと崖から身を投げたこともあるが、『異常』はそれでも彼女を護り服を濡らすことさえ許さなかった。剃刀に手首を当てても切れることはなく、そのくせ髪は自由に切れた。嫌な顔をされるだけだから最寄りの美容院には行けず、風邪をひいても病院に行くことも出来なかった。何せ注射針すら拒絶するのだ、この身体は。何も上手く行かない。何も上手くできない。赤子の頃の祖父に抱かれている写真すら互いに無表情だ。もうこの時には愛想を尽かされていたのだろう。他人のような家族。家族の形も所詮は他人の集まりか。ハンカチで顔を拭って、少女は自室に入る。がちゃん、と扉に鍵を掛けられる。外出は禁じられていた。もっとも彼女と遊ぼうとする奇特な人間は村中探してもどこにもいなかったが。
そしてそれは村を出るまで続くことになる。
「ほらよ」
中学の卒業式を終えて家に戻ると、突然祖父が渡してきたのは通帳と印鑑とカードだった。名義が自分ではあるが、覚えはない。どこでも使える郵便貯金の口座を確認すると、毎月決まった額の入金があったが、知らない名前だった。生まれたと思しき頃から毎月振り込まれているそれは、結構な額になっている。
「お前の父親が毎月ご丁寧に振り込んできた養育費だ。言っとくが俺は一切手を付けてねえからな。それ持ったら制服着替えてすぐ村出てけ。二度と顔見せんな」
捨てられたのだと思っていた父親には、どうやら後ろめたさがあったらしい。一升瓶をとくとく傾けて祝杯中の祖父の背中に勢いよく頭を下げて、簓は言われた通りセーラー服を脱ぐ。すると壁にはいつの間にかリクルートスーツが掛けられていた。もしかしたら。もしかしたら自分は、愛されていたのだろうか。この『異常』を少しは受け入れてくれていたのだろうか。父も、祖父も。ピンとしたそれと、少ない衣類を詰め込んだトートバッグ、忘れずに通帳を一番下に詰め込んで、簓は家を飛び出した。
「さようなら、お祖父ちゃん!」
次にいつ会えるか知らない祖父にそう声を掛けて、簓は飛び出していく。きっと二度と帰って来るなと祖父は迷惑に思うだろう。それでも良い。さようなら村の人たち。さようなら同級生。村に唯一あるバス停からバスに乗り、簓は村を出て行く。運転手はぎょっとした顔を一瞬見せたが、すぐに営業用に顔を切り替えた。こういう一人で出来る仕事も良いな、と思いながら、まだ免許を取れる年齢でもなく資金にも乏しいものがあるのが解る。働くのも楽じゃないだろうと考える簓は、それでもまだ世間の荒波を知らなかった。
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