理由

 男がひとり暗いトンネルを這いずっている。五人の護衛は一分ともたずに殺された。自身も腹に刺し傷を負っていた。

 それでも男は、希望の砂粒を探すかのように、冷たいアスファルトに爪を立て這っていた。歪めた顔を脂汗まみれにし、荒い息を吐き、スラックスの膝が擦り切れるのも構わず、這っていた。まるでナメクジが過ったあとのように、暗闇に長い血の帯が伸ばしながら。

 硬質な靴音が反響した。男は躰を震わせ、いっそう激しく這った。近づいてくる。早い。もう、すぐ足元まで――。


「諦めろ」


 低く、冷たく、若い声だった。

 男は肩越しに振り向いた。視界を靴底が埋め尽くし衝撃が脳髄を貫く。男は鼻血を吹きながら路面に突っ伏した。

 ドッ、と革靴の爪先が男の腹にめり込み、仰向けに転がす。


「死ぬ時間だ」


 青年だった。右手に、男を刺したナイフを握っていた。血のぬめりはなく、トンネルに紛れ込んだ月光を受け銀色を返していた。


「なぜ、俺を……」


 男が尋ねると、青年は男を抑え込むように両肩に膝を落とし、顔を覗き込みながら、刃先を喉に突きつけた。


「……かつて茗荷が作られていたから茗荷谷という」

「……なに?」


 男の眉が寄った。

 青年は顔を背けて舌打ちし、向き直った。


「富士見台や富士見坂、富士見ヶ丘からは富士山がみえるだろ?」

「……だから、なんだと……言うんだ……?」


 男の潤んだ瞳が左右に揺れた。

 青年は男の髪を掴んで頭を引き起こす。


「わからないのか? 霞が関には霧がでる。荻の生えた窪地は荻窪という」


 そこまで言って、青年は小さく鼻を鳴らし、男の髪を手離した。支えを失った男の後ろ頭が路面を叩き汁ばんだ鈍い音が鳴った。


「まるで……わか……らな……い」


 男の息が切れていく。

 青年は微笑を浮かべまばたきした。


「……言われてみれば不思議だ。風は目に見えないのに風見台という」


 今度は男が笑う番だった。

 青年の顔が歪んだ。


「なにがおかしい?」

「風見台……は……」

「なんだ?」

「風を……見ると……言う………のは」

「なんだ!?」


 青年の怒鳴り声がトンネルに響く。

 ぐぶ、と男が血を吹いた。


「……おい!? おい!! なんだ!? 風見台の風見ってのはどう――」


 男を揺り起こそうとして、青年は気づいた。握っていたナイフが、男の首に深く食い込んでいる。誤って切ってしまったのだ。

 青年は悔しげに舌打ちし、腰を上げた。


「いいさ」


 青年はナイフを投げ捨てた。


「茗荷を栽培していた谷があるから、茗荷谷と言うんだ」

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