頭部戦線異常なし
東京近郊――
『バーバー・バーばばあ』
創業当時は珍しかった女理容師でバーテンダーの店主は既に引退、孫娘が理容室を継ぎ、地元では、
『バババばばあの孫』
と呼ばれる。
客は近所の奥様、旦那様、ジジババ、ガキども。
ただし週末土曜日だけは完全予約制となる。
ばばあから継いだ秘技を求める、人目を忍ぶ客のために。
店に澄んだ鈴の電子音が鳴り響く。ソファーで横になっていたベルネはむくりと躰を起こしスマホを止めた。
タクシーが停まった。帽子を目深に被った男。濃いサングラス。口にはマスク。革靴で階段を蹴り、上がってくる。
ベルネはあくびを噛み殺しつつガラス戸を開いた。
「お待っしぁしたー」
男が帽子のつばを引き、マスクを外した。
「奥どぞー」
言いつつ、ベルネはガラス扉に『準備中』の札を吊り、白いロールスクリーンを下ろした。品性と口さがないマセガキはえっちサービスと噂している。客がすべて男で歳がいっているから。
四十代以降が多い。
三十代も少なくない。
男が席につき帽子を取った。
鏡に映る男のヘアスタイルを見て、ベルネは頬を緩める。
「蒸れは頭皮に悪いッスよー?」
半笑いで帽子を受け取り、クローゼットにかけて。
「で、今日はどのように」
男は言いにくそうに唇を湿らせた。
「前髪で――」
「前ってか頭頂ッスね」
んっ、と男が口を噤んだ。
ベルネはニヤニヤして言った。
「よござんしょ。あるように見せましょう」
「ないと仰っしゃりたいんですか?」
「滅相も」
ベルネは専用の黒い散髪ケープを男にかけた。残り少なな毛髪を切るために祖母が始めた配慮である。
ベルネは汗に濡れた細毛に櫛を通しつつ尋ねた。
「お客さん最近よくテレビで見ますね。何でしたっけ。軍事評論家?」
「……専門は戦略です。政治ですね」
「戦略――あれだ」
ベルネは男の前髪を
「ワレ頭部最前線ニテ情報戦ヲ展開ス!」
「……怒りますよ?」
ベルネはふへっと笑い返す。
「じゃあ崩しちゃいます?」
鏡に映る男の頭部最前戦は、あたかも霞がかる夏山のようだった。
男が憮然とした顔で言った。
「作戦続行」
ぶふっと吹き出し、ベルネは敬礼した。
「アイアイサー」
彼女は、頭部戦線における情報戦の、プロだ。
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