改名

 本当に春は来たんだろうかと疑いたくなる、冷たい雨の日だった。

 商店街のケバブ屋が閉まっていた。すわコロナかと覗くと、店主が腰をいわしたらしい旨が書かれていた。

 僕はホッと息をつき、もう一つの馴染みの店に向かった。

 春雨に濡れた商店街の、駅を入り口としたら出口側にある、黄色と青で飾られた本格中華を自称する創作料理の店。軒先で、金髪、碧眼、八頭身の、およそ日本人とは思えない店主の杏奈あんなさんが、暖簾をつけかえていた。


『創作料理キーウの水』


 はて? と僕は首を傾げながら近づいた。


「改名したんですか?」


 尋ねると、杏奈さんが肩を震わせ振り向いた。


「ぼ、僕さん……!」


 まるで幽霊を見たかのようなオーバーリアクション。両手の形は小指と人差し指、それに親指を伸ばした

 だから僕は僕さんじゃないんだってと、僕は傘を閉じながら言った。


「キーウになったんですね」

 

 杏奈さんはぎこちない笑みを浮かべたまま首肯する。


「……嘘をつくのもあれかな思ったデス」


 別に誰も気にしちゃいない。当人以外は気にもとめないだろう。けれど気になることもあるだろう。どこまで明らかにする気か知らないが、追求するつもりもない。


「えーと。開いてます?」

「ハイ! らっしゃーせーデス!」


 ケロケロケロリと戸を開くと、耳馴染んだ某コンビニの入店音が鳴った。


「これも変えないとデスカネー?」


 誰に言うでもなく尋ねられ、僕は誰に答えるでもなく呟いた。


「やれる範囲でいいんじゃないですか?」


 手にしたメニューは変わらない。秋田風の冷やし中華に、秋田の餃子。ただ少しだけ違うのは、ものすごく気弱に『ボルシチ』と『ヴァレニキ』のルビが入っていた。

 

「えーと……」


 僕はどう頼むか迷った。迷ったが。


「秋田の餃子と、秋田風チキンカツで」


 いつもの調子で頼んだ。


「ハイ! ヴァレニキとキーウカツ、かしこまりーデス!!」


 答えは違ったが、特に気にしない。

 雨音に紛れる包丁の音。油の回る香ばしい匂いが店内に広がる。

 ふと目をやると、カウンターに見慣れないオブジェが増えていた。青い空と小麦色の畑。槍を手に立ち上がる人々のジオラマ。

 

「お待たせしたでござる〼《ます》!」

 

 あらゆるものが混合した声音に顔を上げ、僕は尋ねた。


「あれ、何?」

「あれ?」

 

 杏奈さんは首を振り、難しい笑顔で言った。


「一向一揆デス。秋田から取り寄せますた」

「……ふーん」


 秋田の一揆は百姓一揆じゃねぇのと思ったが、言わなかった。

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