入れ子
「久しぶりー」
愛子の笑顔の溌剌さの片鱗は中学のときのあの頃の笑顔の柔らかさの一部を引き継いでいた。胸の奥の深いところの記憶の片隅の引っかかりの笑みの面影が蘇る。
あの頃の俺の幼さの残る恋心の燻りがぽっと燃えた気がした。
「久しぶり。いつ以来だっけ?」
風間は手の中のメニューの一覧のひとつのコーヒーの豆の銘柄の絵の右角の中間のあたりを指差し店員の目の先に置いた。
店の店員が頷いた。
今はもう大人になった愛子は両手でテーブルの上に頬杖をついて上に頭の重さの一部を預けて言った。
「三年ぶりくらいかな? 卒業して以来」
「もうそんなか」
卒業式の時の俺は変だった。夢の中にいるようだった。あるいは夢の中で夢から覚めて起きてみたら夢だったというループの中の真ん中の点に立っていた。
「覚えてる? 卒業式の後のカラオケの帰りの道の駅のすぐ近くの公園のブランコのところの」
「あの頃の俺の恥ずかしさの頂点だよ」
中学生の風間の恋の全ては愛子だけで、三度の告白は彼女の方だけを向いていた。
夜の暗さに伸びる街灯の光の心もとなさのあの時の風間の不安の似通いぶり。
三度目の正直のつもりの告白の結果は。
「私ずっと考えてたんだよね」
愛子の側の言い分では、同じ高校に進む男子三人の内の二人の告白を受けていたのだと言う。もし誰かの告白を受けるなら、高校生活で恋人として過ごす期間を長くできる相手を選んだ後に、さらに少しでも性格や顔がいいのが良かったのだ。
「顔って。正直だよな」
ちょっと考えさせて。
あの夜の公園のブランコの前の冷えた空気を忘れられない。白い湯気のような吐息の儚く散る映像の印象的なこと。
公園の桜の木の花びらの花弁の一枚が風の勢いに揉まれて円弧を描いた。
今あの頃の愛子は目の前にいないのに、風間は学生服を着ていた。幻覚の中にいるのだろう。喫茶店の椅子はブランコの手すりの鉄の冷たさを思い出させた。
「あの頃の私に今の私なら言うよね。風間にしとけって」
現在の喫茶店の対面の席から飛び出した寂しげな声が、まだ若かった中学の卒業式のあの頃の自分の前の空間に放り出された。
あの頃の風間は言った。
「じゃあ俺にしてよ」
「お願いします」
風間は胸の奥でガッツポーズしたのを覚えている。
目の前の光景の乱れがあった。
「楽しかったね」
風間と愛子の手の薬指の根本に同じ銀色が光っていた。
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