訓練の賜物

「人よ。そのはらわた奥深くでくすぶる欲望に、身を任せよ……」


 妖魔メロウが両腕を翼のように開いた。ギラつく黒眼が睥睨すると、不思議と彼らは瞳に惹かれ、また吸い寄せられ、気づけば――


「ダメだ! 我慢できない!!」


 一人が、傍の女を押し倒した。誓いの仲間のはずだった。男女の情など介在しない、同志のはずだった。

 しかし、押し倒された女もまた、受け入れようとしていた。

 そこに別の男が駆け寄り、右足を振った。


「てめえ、気に入らねえんだよ!」


 ドッ、と爪先が脇腹に刺さった。蹴られた男は身を捩り、嘔吐した。けれど、身を焼き始めた情欲は止まらない。たった一度の衝動で怒りは晴れない。

 怒りと情欲の悪魔アスモデウスの力を借りた、メロウの魔術が、凄惨な同士討ちを促す。


「争え……! 争うがいい!!」

 

 メロウは唇の両端を吊った。なんと愉快なのだろう。人の理のか弱きことよ。

 長く垂らした袂から、緑翠走る漆黒の短剣を抜き、悠然と、争う英雄たちに歩み寄る。楽にしてやろう、この手で、と。

 殴られ、鼻血を噴きながら、なお女に迫る男。自ら白肌をさらけだす女。なんと浅ましく、美しい――


「おい」


 背後から聞こえた声に、メロウが振り向く。

 握り固めた拳があった。

 拳が頬にめり込み、骨を砕き、妖魔に血をしぶかせた。メロウはもんどり打って転がった。手で口を覆うも、青みがかった血が指の隙間から溢れた。取り落した短剣に手をかけると、


「グガッ!」


 その手を、固い靴底が踏みつけた。ブーツ。見上げれば、女が一人、冷たい眼差しを妖魔に向けている。


「な……!?」


 ありえない。人の欲望は果てを知らない。術に堕ちれば人の理性ではどうにもならないはずだ。

 ――なのに、この女は……?

 女は、メロウの歪んだ顔を見下ろす。


「今、私は――」


 ぶるっ、と小さく身震いした。


「おしっこを我慢している」


 ――は? 

 言葉の意味を解せず、メロウは呆然と手を下ろした。ぽっかり開いた口からボタボタと血が垂れた。

 女は喉を鳴らし、浅い呼吸を繰り返しながら言った。


「五時間も待機していた。ようやく交代だと思ったら、これだ」


 一杯の水とコーヒーが原因だった。


「知らなかったよ。尿意が、性欲やら怒りやらに勝るとはな……」


 正確には、理性。生まれ落ちてから三年と経たず仕込まれ、十五年もかかさず行われてきた訓練。すなわち、

 

 トイレット・トレーニング――。

 


「術を解いてもらおうか……!」


 女は若干、内股になり、拳を振り上げた。

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