ラプラスの間

 アマチュア作家の近藤こんどうは、長野山中奥深くにある伝説の湯治場、ラ・プラスに来ていた。

 分かっている。

 裏取りでできない情報ばかりの宿で、しかも名前がフランスの匂い漂う近代的なラ・+、眉を唾でベトベトにしても足らない。

 しかし、彼の悩みは限界に達していた。

 創作意欲はある。興味も尽きない。時間と体力さえ続けば死ぬまでキーボードと格闘していたいと思うが――


 手の遅さに絶望する。


 遅いのだ。手が。

 脳内ではナイアガラ瀑布もビビる勢いで文章が噴出しているが、手が追いつかないのだ。せいぜい五百WPMくらいで手指の方が限界を迎え、それゆえにやる気が失われてしまうのだ。

 もちろん、高速で文章を紡ぎ出したとしても、推敲の段階で残しても良いと思われるのは七十パーセント程度で、あまりにも無駄が多くなる。

 書くのも遅ければ書いても無駄が多い。

 脳内で繰り広げられる最高の物語の実力を、ほんの三十パーセント程度しか発揮できていない。

 その推測が、近藤を悩ませ、また彼の手をさらに遅くしていた。

 ゆえに。

 彼は藁にもすがる思いで、この温泉地に訪れたのであった。


「……ど、どうもー……」


 見た目には普通の――合宿所であった。

 それも大企業の保養所や、文豪が骨と手指を休ませる湯治場ではなく、中途な私学が温泉地にとりあえず用意しておいた合宿所といった雰囲気の、安い作りだった。

 ジャケットの代わりに法被はっぴを来た男が、ご丁寧に頭を下げ言った。


「ようこそ、ラ・プラスにお出でいただきました。誠にありがとうございます」

「えっと、あの、噂では――」

「はい。そのようですね」


 男は小さく頷いた。


「当ホテルの、ラプラスの間が、お客様がお求めになられた部屋にございます」

「噂だと」

「はい。彼のラプラスが泊まり悪魔を見た部屋にございまして、一泊すれば全世界の物理法則全てを把握し、未来を容易に推測できるようになるのです」


 ゴクン、と喉を鳴らす近藤に、男は言った。


「ですが、電波は遮断され一切の記録装置は持ち込むことができません。メモも、紙もです。しかし、一度、一度だけ宿泊なされば、手に入れた全知のうちの、ほんの一握を有したままお戻りになることが可能です」

「本当、ですか?」

「私もあの部屋に泊まりましたので」


 男は言った。


「嘘をつくような無駄はいたしません」


  *


 近藤はラプラスの間に泊まり、全てを知り、出た途端に忘れた。

 彼の脳に残っていたのは、人類史上、最も完璧な鮭の焼き方であった。

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