湾岸真昼《ミッデイ》

 その馬は、まるで狂おしく身を捩るように、走るという――。

 天明てんめい三年、江戸。大黒の茶屋から湾岸線に乗り入れた小右衛門こうえもんは、愛馬の九一一ここのいはじめ太明母たあぼと折り合い付けようとしていた。


「どうどう、どう」


 宥め賺すが、どうにも今日は荒れている。歩き出したかと思えば前掻きを始め、尻を蹴ると嘶く始末。とはいえ、掛かればどうにもならない。

 小右衛門は黒鹿毛の体躯を撫で、手綱を引きつ揺すりつ歩みを進める。


「どうした。何を待ってる?」


 ブモ! と太明母が不満げに鼻息をついた。

 このとき、太明母の馬体重はおよそ百十五貫。競走馬としては小柄だが、鍛えた上げられた体躯は実に十七馬力を絞り出すようになっていた。スパルタに次ぐスパルタは馬を半ばあやかしの類と化し、今なお進化を続ける太明母は、まさに鬼へと変じつつある。


「……参ったネ。手を出したら食われそうだヨ」


 小右衛門が嬉しそうにボヤくと、それまで嫌がっていた太明母が、急に歩様を改めた。


「太明母――?」


 小右衛門は手綱を握り直した。


「来るのか。アイツが――」


 遠く背後から、狂気の滲む気配が迫ってくる。

 そう、まるで――身を捩るように。

 ダカッ、ダカッ。

 蹄が土をえぐり飛ばし、横に並んだ。

 首を振って見るまでもない。太明母が腰に力を入れた。それだけで十分だった。


「イイ日差しですネ。馬場も、よく乾いてる」


 併せて並んだその馬の背の上から、声は聞こえた。


「ズイブン、仕上がってるみたいじゃないですか」

「まさか本当に来るとはネ。焦っちゃうヨ」


 小右衛門の額に汗は滲んだ。

 否が応でも視界に入りこんでくる、強烈な個性。

 伝説の青鹿毛、点陽ダットサン――。

 こちらを威嚇するようにひん剥かれた三白眼は狂気を覗かせ、百二十貫を超えるであろう巨大な体躯を支える足は、大地を踏み割らんばかりの迫力だった。

 鼻息も荒く、二頭の馬が速度をじわりと上げていく。


「実は……探してたんですヨ。湾岸の黒鹿毛」

「ソイツに乗るのは、狂気の沙汰だね」

「でも、俺はこいつを信じてるんで」

「人生を捧げるつもりか?」

「捧げたんですヨ。もう」


 青鹿毛の点陽がハナを切る。影隠しシャドーロール遮眼革ブリンカー、ついでに面子メンコもつけている。

 狂おしく身を捩るように――?

 小右衛門は苦笑する。

 狂っているのはどちらの方だ。


「ついて、来れますか?」


 点陽に乗る青年が言った。


「こいつ、黄金の血が流れていますヨ」


 言わなきゃダメか?

 違うだろう。

 青鹿毛の点陽と、黒鹿毛の太明母は、ほとんど同時に首を下げた。

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