昇天

「チャンスだよ、お兄ちゃん!」


 紗季さきは小さな手でミニ傘を握りしめ、熱戦を見つめていた。

 十一月二十七日。SMBC日本シリーズ第六戦――延長十二回表。時刻はすでに十時を回っていた。

 接戦に次ぐ接戦。舞台を神戸に移しても死闘は続いた。オリックス先発が百四十一球を投じて九回一失点でこらえ、ヤクルトも継投で乗り切る。

 そして、スワローズ最後の得点チャンスに、シリーズで何度も見た光景が現れた。

 二死からのランナー。

 使うならここしかない。守備固めに入っていた二番に代打を投入する。

 シーズン代打安打三十本を誇る代打の神様。天才。

 ピッチャーが交代した。

 縦に鋭く落ちるスライダーが武器のセットアッパーだ。

 初球はド真ん中ストレート。見逃し。二球目はインハイで起こしにかかる。揺るがない。三球目を見逃し、内角低めスライダーをカット。

 事件は五球目におきた。

 同じところのスライダーがミットを外れ、キャッチャー後方に抜けたのだ。

 ランナー二塁、一打勝ち越しのチャンスとなった。

 

「ふぅぅぅ……!」


 紗季は一時いっとき、兄・わたるの存在すら忘却していた。代打の神様はシーズン得点圏打率四割二分。いける。やってくれる。

 確信に近い祈りだった。

 六球目。内角高めスライダー。カット。極限まで研ぎ澄まされた技術が打てる球を要求する。左のバッターボックスに戻り、一度、大きく胸を開いた。構え、小刻みに左肘と足を動かしタイミングを取る。

 気温五度を下回る極寒の神戸。吐く息が霧のように白く流れる。

 七球目――内角スライダー。ほぼ完璧の難しい球だ。バットが出る。根本に当たった。白球が宙を舞った。落としたら終わりだ。ショートが懸命に追い、レフトが全速で前に出る。しかし、


「落ちたーーー!!」


 紗季は傘を広げて飛び跳ねた。ボールが帰ってくる間に、セカンドランナーがホームに頭から突っ込む。勝ち越し――。

 往年の、スタメンに名を連ねていた頃の、前進守備のレフトとショートの間に落とす、インコース流し打ちの芸術的ポテンヒットだった。

 十二回裏、マウンドには、半袖のヤクルト守護神が二回を跨いで上がる。

 三振。死球。紗季の両手に力がこもる。中飛センターフライ。あと一人。三球目だった。飛んだのは、燕のキャプテンの元だった。


「やったー!! お兄ちゃん! 日本一だよ!」


 紗季は頬を上気させ振り向いた――が。

 渉は、両手を胸の前で合わせ、晴れやかな顔で涅槃に入ろうとしていた。


「お兄ちゃーーーん!?」


 憑き物は落ちた。

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