フラグクラッシュ

 病室の窓の外、冬めいた曇り空に、一筋の白く細い煙が昇っていく。

 わたるは窓際の花瓶を手に洗面台に向かった。暗闇に溶けた鏡の奥に、やつれた少年がいる。目の下のどす黒いクマ。痩せこけた頬。渉は、二度、ゆっくりとまばたき、電灯のスイッチを入れた。蛍光灯がカチカチと薄い金属板を爪弾くような音を立てながら明滅する。鏡像の頬が元の膨らみを取り戻し、クマも薄らいだ。

 渉は花瓶から花を抜き取ると白陶のボウルに横たえ、古びた水を捨てた。センサーの前で手を横に払い、流れる新鮮な水を花瓶に注ぎ、また花を生ける。


 ――そろそろ新しいの買ってこないとな。


 胸中に呟く。


 ――もういらないかな?


 渉は微笑みながら蛍光灯を消し、振り向いた。

 ベッドを囲う薄いカーテンの向こうから、楽しげに歌う少女の声が聞こえてきた。


「ハァ~~、踊りおーどーるなぁ~あ~ら~、ちょいと東京おぉ~んぅどぉ~」


 やけにどうった歌いっぷりだ。カーテンに透ける妹の、紗季のシルエットは、幼児用を思わせる小さな傘を上下していた。嬉しいような。将来が不安になるような。渉は微笑みを苦笑に変える。


「花ーの都の真ン中でぇ」

 

 歌い継ぎ、渉はサイドテーブルに花を飾った。


「――勝ったね! お兄ちゃん!」


 紗季が、応燕おうえん傘を握りしめて言った。晴れやかな表情かおに覗くほのかな疲労は、手術のせいだろうか。タブレットに映る胴上げのせいだろうか。


「飽きないの?」

 

 渉が尋ねると、紗季は首を横に振って、動画のシークバーに指を滑らせた。画面がベンチに居並ぶスワローズの選手たちを映す。終身名誉キャップが大フライングでマウンドに駆け出していく。紗季のツボにはまったシーンだ。


 ――分かんないもんだうお。


 渉は窓の外を見やった。

 他力はやめだと決めた矢先、自力を決意した翌日に、他力も絡んで願いが叶った。

 勝ちに不思議の勝ちあり。

 今は亡き老獪な監督の言葉だ。


 ――でもまさか、優勝につながるなんて。


 ベイスターズとハマスタに感謝だ。

 約束通り、妹と喜びあえるのだから――


「――――カ」


 掠れた声がした。

 渉は、恐々と振り向く。


「ユル――サデ――オク、ベキ……カ……!」


 魂の抜け殻となった母の、血走った三白眼が、曇天を睨んでいた。

 ロッテが力尽き、オリックスが二十五年ぶりに優勝したのだ。


「ライトスタンドが潰れるまで飛び跳ねてやる……!!」


 あらゆる感情をほとばしらせた喉は、裂けてなお、諦めていない。

 やめとけ――と、いさめる勇気が渉にはなかった。

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