フラグ2

 シェイクスピアは明けない夜はないと書いたという。止まない雨はない、とも。本当だろうか、と渉は寒暖差で曇った病室の窓ガラスをシャツの袖で拭う。

 雨は止んだ。重い雲も失せた。

 しかし、雨音に隠れて訪れた冬の影が朝日を覆った。


「お兄ちゃん……ヤクルト、優勝できるよね?」


 病床で、妹の紗希さきが瞳を潤ませていた。東京ヤクルトスワローズが優勝したら手術をすると決め、三日が経った。

 優勝に必要な勝数を表す魔法の数字――マジックナンバーは、


「未だ、三――」


 拭ったばかりの窓ガラスが渉の吐息で白づいた。

 負け方が悪い。戦い方を忘れてしまったのだろうか。稚拙で、目を覆いたくなるほど乱雑で、集中力と闘争心を欠いている。


 もう、無理だ。


 悲嘆の幻聴。現・監督が、黄金期の監督の言葉を引用し、絶対大丈夫だと選手を鼓舞したのは、いつだっただろうか。

 話題になり、連勝し、グッズが販売され、青ざめた。

 浮足立っている。

 誰もが。

 不安が形を得た。

 現・監督は『勝負は時の運だ』という言葉を引用した。人事を尽くして天命を待つ。故事を好んだ老獪な監督らしい言葉だ。

 同じ監督は、かつて、こうも言った。


『優勝するのは、優勝に相応しいチームである』


 今のチームは相応しいのか。

 ――いや、それよりも。


「紗希」


 渉は決然と振り向く。


「俺はヤクルトを応燕おうえんしてるし、ヤクルトが好きだ」

「……知ってるよ? だから――」

「――だから」


 渉は声を強くし、紗希の話を遮った。


「ヤクルトに頼るのはやめよう」

「……え?」

「手術を受けるかどうか、チームの優勝で決めるなんて間違ってる」

「でも――」

「でもじゃない。自分で決めよう。紗希。辛いかもしれない。怖いかもしれない。でも、決断を誰かに預けちゃダメだ。それは、手を尽くしたとは言えないから」


 渉は紗希の小さな手を取り、いのりを込めて撫で擦った。


「俺は、紗希の決断を信じるよ。俺は、紗希と優勝を喜び合ってから送り出してもいいし、元気になった紗希と喜び合うのでもいい。自分で決めるんだ、紗希」


 明けない夜はない、という言葉は、いつか誰かが何とかしてくれるという意味ではない。長い、長い夜に、自らの手で朝をもたらそうという決意の台詞なのだ。


「――そうよ、紗希」


 突然、聞こえた母の声に、渉と紗希が慌てて顔を向ける。

 母は悠々と腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。


奨吾しょうご、マーティン、荻野おぎの――ロッテは自分で決めたわ」


 病室に、夜闇を払おうとマリンの風が吹いた。

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