フラグ

 病室の窓から見る空は酷く寒々しく思えた。流れる雲は海流に揉まれる海月くらげのように力なく、広がる青は血の気の失せた肌のようだった。


「……お兄ちゃん」


 病床の妹に呼びかけられ、わたるははっと顔をあげた。


「なんだい、紗希さき?」

「えっとね……」


 紗希は手元に視線を落とした。


「紗希、決めたよ」

「何をだい?」

「私、ヤクルトが優勝したら手術するよ!」

「――えっ!?」


 いま、なんと言った? 渉は喉を鳴らした。ヤクルトと言ったか? いや、そんなはずが――


「私、お兄ちゃんが好きな東京ヤクルトスワローズが優勝したら手術受ける!」

「――ちょっと待て!」


 思わず、渉は打席でタイムを求めるバッターのように左手を伸ばしていた。

 俺の、好きな、東京ヤクルトスワローズ?

 たしかに好きだ。ファンだ。神宮に応燕おうえんに行くと負けるからと、チケットこそ購入しても無料で知り合いに譲る程度には。

 だが、


「さ、紗希……ゆ、優勝は――」

「マジック? 四なんだよね!? 優勝、できるよね!?」


 できる――常識的に考えれば。しかし、


 ヤクルトだぞ!?


 渉はバッティングカウントに持ち込んだ代打の如く高速で思考する。残り試合数は八。マジックは四。勝率五割で優勝だ。それがマジック。二位との直接対決が二試合あって、ここで連勝でもいい。


 じゃあ、優勝したら受けるんだぞ!


 そう笑顔で言えればどれだけ楽か。渉は顔を覆った。六回三分の二で追いつかれて降板した先発投手が時折ベンチでそうするように。

 思い出される悪夢の十六連敗。昨年、勝ち、分けを挟んで繰り返した連敗。今季は最大でも四連敗が一回くらいだったはず。だから、首位で、マジックがついた。

 しかし――


「ヤクルトだぞ!?」

「お兄ちゃん!?」


 渉は慌てて口を塞ぐ。心配させてどうする。絶対大丈夫。優勝を約束してしまえ。


 ――でもヤクルトだぞ!?


 魔の十連戦で無敗の八勝。今季最初の天王山、二、三位との六連戦を三タテ、二勝一敗で乗り切った。


 うまく……いきすぎている!


 残り全敗だって普通にありえる。さすがにそれはなくても、負け越しくらいはありうる。渉は喉を鳴らし、紗希を見やった。


「お兄ちゃん……?」


 不安そうに、眉根を寄せていた。

 絶対大丈夫と口の中で呟き、渉が息を吸った――そのとき。


「話は聞かせてもらったわ」

「――!? 母さん!?」


 振り向くと、母が両腕を組み、不敵に笑っていた。


「紗希……ロッテが優勝したらにしなさい」


 病室に、息すら忘れる緊張が走った。

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