マスクトリーイング

 雲ひとつない夜空に猫目の月が浮かんでいた。駅前の飲み屋街は静まり、日中は常に車があるコインパーキングも見通しが良い。耳に届くのは鈴虫の声くらい。

 駅はとうに最終電車を見送り、都心へ続く国道の信号すら無為な変光を繰り返す。

 時刻は午前一時と少し。

 夜を独り歩く慶一けいいちは、Tシャツで出てきた己に後悔しつつ、右腕を撫でた。鳥肌が立っていた。

 肌寒いせいか。

 それとも――。

 慶一は周囲を見渡し、マスクの下で唇を湿らせた。人の気配はない。コロナ騒動が始まって早二年。外出にはマスクが必須。なのに、人詰めの電車で都心に出なくてはならず、移動する度に手指を消毒しなくてはならない。

 苦痛だった。

 都会と呼ぶには慎ましく、田舎と呼ぶには騒がしすぎる。市外の人間を排他するには至らないが、しかし、行き交う人々は互いに一瞥をくれてマスクチェックを執り行う。万が一、マスクを忘れていたりすれば、たちまち疫病患者の如く道を譲られ、それが近隣の住民であれば噂となって風に乗る。

 村八分――いや、もっと酷い。

 村なら村民が手を貸すが、コロナ禍の街では最後の二分――葬式と火事――すらおおやけが担う。

 限界だった。

 肌が弱く、呼吸器に若干の不安を抱える慶一にとって、過ぎ去った夏の日々は地獄だった。地獄の底で課せられた苦行そのものだった。

 唯一の趣味はカメラ片手に旅行すること。

 もちろん、許されるわけがない。

 せめて、せめて――、


 不織布を通さずに空気を吸いたい。吸わせてほしい。


 街の大気を、匂いを、肺一杯に吸い込みたい。

 膨らみ続けた欲求不満は、彼に一線を越えさせた。

 慶一は油断なく目を光らせ、不眠不休の無給で働くマスク着用監査管一般市民どもがいないことを確認する。

 そして、鼻息で眼鏡を曇らせながら、右耳にかかるゴム紐に指をかけた。人差し指の爪にかかる圧力が無限に重くなっていく。理性がやめろと叫んでいた。

 

「……へ、へへへへ……!」


 緊張から薄笑いしつつ、慶一は血走った目を見開き、ゴム紐を外した。

 パツン、と縮まり、垂れ下がるマスク。

 大口を開け、両手を広げ、彼は肺いっぱいに空気を吸った。

 瞬間。

 目の奥が明滅した。脳の回路を焼き切る興奮。背徳の喜び。

 口中に溜まる唾を飲み込み、慶一は言った。


「このまま……このまま、商店街を歩いてやる……!」


 もはや欲望の矛先は別の方角を向いていた。

 遠くに人影があった。

 よこしまな欲望が湧いた。

 もし、もしも、


 目の前でマスクを外したらどうなるんだろう……?

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