ニャンコフスキー

 夏の終りが近づき、民家の軒先で茄子なすでできた牛や胡瓜きゅうりの馬が慎ましやかに駆け回る頃だった。

 家に帰ってくるなり、私は主人のかいなに包まれた。


「ニャンコフスキー! お願い! 教えて!」


 ニャンコフスキーというのが、私の名だ。

 主人が暑そうな紺ブレザーを着込んでいた頃、居酒屋の裏で闘争に破れ死にかけていた私を拾い、主人が名付けた。

 なぜニャンコフスキーか。

 それは、主人がロシアンブルーという品種の猫に憧憬を抱いていたからだ。

 残念ながら私の体毛は灰色だったが、しかし、主人は気にしなかったし、私は命の恩人として敬意と愛情をもって接してきた。

 ――正直に告白すれば、先日も勢い余って人語で警告してしまったくらいに。


「ニャンコフスキー! お願い! 今回だけでいいの! お願いだから教えて!」


 慌てているとき当の要件を口にしてくれないのが主人の常だ。私は、ぐのん、と伸びゆく躰に微かな痛みをおぼえながら、腰が抜ける寸前で足を踏ん張った。

 さあ、なんと答えよう。

 人の言葉はまずい。だが、涙目になられてしまうと心が揺れてしまう。歳のせいか、最近はこの危なっかしい主人の行く末が気になってならない。


「お願い!」

 

 力強く抱きしめられ、主人の体温に嬉しさと息苦しさを感じつつ、私は仕方なしに答えた。


「ンなぉぅ」


 猫の言葉で。

 いちおう、どんなお願いかと尋ねるつもりで。

 主人は、はっと私の腹から顔を離し、鞄からスマホを出した。知る限りでは便利な板切れのはずだが、主人は執拗に私の写真を撮るくらいにしか使っていない。


「あ、あの、私の同僚が、にゃんこにやられたって……!」


 ――なんだと? 猫ではなく、にゃんこ?

 私は思わず天井を見上げた。使い倒したキャットウォークの一部が目についた。


「目が、青と金色に分かれてて――」

「夕闇色?」


 私は、諦めて人語で尋ねた。

 主人がスマホを取り落す。


「にゃ、ニャンコフスキー……!」


 感極まっている。危なっかしいったらない。


「そ、その人、目を返してもらうって――」

「最悪だ。場所は?」

 

 私が言うと、主人は慌ててスマホを指で叩いた。

 もう間に合わないだろうが――。


「きっとあそこだ」

 

 不可能事象の滞留地と化した商店街の一角――夕闇亭。


「見てくる。絶対に部屋から出ないように」


 コクコク頷く主人。まったく、私もがいい。


「窓の前で三回鳴く」


 言って、私はキャットウォークに飛び乗り、窓の隙間から外に出た。

 年甲斐もなく、道路に横たわる熊蝉くまぜみに目がいった。

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