夕闇亭のにゃんこ 顛末・前

 俺が見ていた夕闇色の空は、この奇妙な虹彩が生み出したのだろうか。 

 ゴン、とユウキは電車のドアに額を打ちつけた。そんなバカなと思うが、しかし、現に瞳が夕闇色に輝いている。


「変えられた……」

「……は?」


 同僚の女は、当然ながら冗談と思ったのだろう。ユウキ自身の影が車窓を汚れた鏡に変え、女の苦しげな愛想笑いを映していた。

 ユウキのの口元にできの悪い薄笑いが浮かんだ。


「夕闇亭のに――」

「にゃんこ!?」


 頓狂な声に、ユウキは笑みを消して振り向いた。

 女は、わざわざ手で口を塞いで、周囲に小さな会釈を繰り返していた。


「……そんな驚きます?」


 何か知ってるんですか? と聞くべきだった。

 女は一駅分も視線を彷徨わせ、口のそばに手で衝立ついたてまでつくり、小声を出した。


「にゃ、にゃんこには気をつけてください……!」

「……は?」

「ニャンコフスキーが言ってたんです……!」

「……ニャンコフスキー?」

「ウチの猫で、一度だけ喋って――」

「はぁ?」

「ほ、本当なんです……!」


 女の必死な様子に、ユウキは自然と口角を持ち上げながら鼻で息をついた。プライベートの絡みはなかったが、疲れた顔のわりに悪い人ではないらしかった。


「まあ猫が話したんなら信じてもいいですけど」

「あ、あの! これは本当で――」

「まあツナ缶一つ分ですし、明日には戻りますよ。きっと」


 ちょっと寂しい気もするが。

 

 ――そんなのは、一日目だからの感想だった。

 

 瞳孔は猫のまま戻らず、空は夕闇色がつづいた。それだけでなく、奇妙な存在が見えるようになった。大抵は壁や床や天井に突然いた。白い体表に極彩色の螺旋を蠢かせる何か。人形もあれば、蜘蛛のようなときもあった。夕暮れが近づくと増え、見ているのに気づかれると近づいて来さえした。

 そして。


「だ、大丈夫ですか?」

 

 帰りの電車で出くわした同僚の女の気遣わしげな声に、ユウキはやつれた顔をあげた。笑う気力はなかった。


「……もう返品するんで」

「へ、返品?」


 ああ、とユウキは頷いた。


「夕闇亭の、にゃんこに、この目をね……」

「あ、あの……」


 女が喉を鳴らした。


「私、ニャンコフスキーに聞いてみますから、少し――」

「大丈夫ですよ。にゃんこちゃんに悪いですし」

「ウチのは猫です。そう言ってました」


 真剣な声で言われ、ユウキはメッセージアプリのIDを交換させられた。嬉しいような悲しいような。ただ、待つ気はなかった。

 夕闇色の空がまばたきするようになっていたから――。

 

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