夕闇亭の猫 後 

 夕闇色の空と手元のコンビニ袋を見比べ、ユウキは微笑した。肩越しに振り向き、腰を折り曲げ、覗き窓のように細い透き通る硝子の向こうのを見た。カウンターに寝そべり、こちらを見ていた。

 が口を開き牙を舐めた。足元に空き缶。コンビニ生まれの割高なツナの三分の一。悪くない選択だったとユウキは思う。

 暦に従えば、まだ見られない空。

 秋の訪れを知らせる夕闇の空は好きだ。

 決して濁らない夕日と宵闇のせめぎあいが、ユウキに宇宙を教えてくれる。

 広大な地表の一点を無目的に彷徨うろつく矮小な虫が、宇宙を知った途端に特別な何かになれたような気がするのだ。

 目に見えぬ微細な塵芥は、星すらも塵だと知った瞬間、高次の存在に変じる。

 たとえエレベータの狭い箱のなかにいても、蒸し暑いアパートの一室に暮らしていても、安いマットレスの上で薄いタオルケットに包まれ眠っているとしても――、


「……夢か?」


 ユウキはレースカーテン越しの夏空に息をついた。頭を掻きながらビニール袋を手繰り寄せ、


「……夢ではないのか」


 たしかめるように口にした。朝食を平らげ、身だしなみをし、灼熱に踏み出る。

 しかし、昨日までの徒労感はなかった。夕闇を見て自身の大きさを知覚できたからかもしれない――いや、幻覚か。

 なにやら、通りすがりに視線を感じる気がするから、そのせいだろう。

 ユウキは電車のドア窓に寄り添った。

 今日も夕闇色の空を見られるだろうか。もし見られなかったら、ツナ缶をもってあの店に行こうか。

 薄ぼんやりと映る顔に作った薄笑いはない。

 何度目かの気の抜けた音のあと、


「――あ、ユウキさん。おはようございます」


 振り向くと、いつも疲れていたが最近は特にくたびれた顔になってきた同僚の女がいた。驚いたように瞬き、じっとユウキの顔――いや、目を見ている。


「……何か?」

「え? あ、いえ!」


 女は頬を染めて目を逸らした。


「あの、出勤のときは、お洒落をなさるんだなって……」

「お洒落?」

「カラコン……ですよね?」

「カラコン?」


 つまり、カラーコンタクト?

 ユウキは車窓を見た。外の明るさで瞳までは視認できない。スマホの黒い液晶でも色は不明だ。同僚の女が怪訝けげんそうに手鏡を出した。


「使います?」

「あ。ありがとうございます」


 鏡を覗くと、


「は?」

 

 目が――正確には、瞳孔が、猫のように細くなっていた。

 そして、その細い黒線を境に、右が橙、左は青紫に、夕闇の空を成していた。

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