夕闇亭の猫 中

 ユウキはツナ缶のパックをカウンターに置いた。古びた天板が乾ききった音を立てた。老婆は三缶一連ひとつらなりのツナを見ようともしない。


「三つ分ですか?」


 唇は動いていない。まるで腹話術だ。

 俺もそのうちにこう喋るようになるのだろうかと思いつつ、ユウキはまばたく。


「一缶、かな」


 朝食分は残す。二つ渡してもいいが、また明日コンビニに寄るのは億劫おっくうだった。

 老婆が言った。


「手が不自由で」

「あ。すいません、気が付かなくて」


 ユウキは薄笑いを引っ込めパックに爪を立てた。


「缶も」

「あ、はい」

 

 いま食べる気だろうか。訝しみつつ銀環プルトップを起こすと、

ペクン、

 と鳴った。手元に視線。老婆は虚ろに足元を見ている。一方で、

 猫が、夕闇色の瞳孔を広げ缶詰に向けていた。

 ユウキは寒気をおぼえ手を引いた。

 猫が、ユウキを見上げた。


「えと……」

 

 猫と老婆を見比べるも返答はない。ユウキは恐々と手を伸ばし、蓋をすっかり開けて猫の前に押しやる。

 猫が、首を垂れ、むさぼりだした。

 ユウキは襟元えりもとのボタンを外した。急に店内の空気が湿り気を帯びてきた。


「あ、あの……猫にツナ缶は――」

「にゃんこ」

「は?」

「猫ちゃんでなく、にゃんこです」

 

 猫ちゃんでなく? とユウキが視線を落とすと、がユウキを見上げていた。目が合うとすぐ食事を再開した。


「……皿にあけたほうがよくないですか? 缶のふちでベロ切っちゃうかも」

「そこまで不器用ではありません」

「……そうですか」


 ユウキは喉を鳴らし、店内を見回す。南洋を思わせる装飾過多の置物や、真鍮しんちゅう蜥蜴とかげが絡みつくアールヌーヴォー風の写真立てや、ほこりまみれの市松人形などがあった。小さな着物は日に焼けて色褪いろあせている。

 向き直ると、ちょうどが夕食を終えたところだった。


「では私の目を見てください」

「……目、ですか?」


 ユウキは左右に首を振り、その場にかがんだ。老婆の目はカウンターの下を見つめ視線が合いそうにない。


ではなく、です」

「は?」


 視線。夕闇色の眼差し。だ。

 長い沈黙があった。

 そういうことか、とユウキは苦笑した。


「面白かったよ。ありがとう」


 苛立いらだまぎれに礼を言い、ユウキはため息をつきつつ背を向ける、と。


「返品できませんので」


 しゃがれ声が聞こえた。はいはいと手を振り店を出た。

 やられたよ。と、ユウキは強張った背筋を伸ばし、


「……え?」


 絶句した。

 空を染めゆく青紫を押し返さんと、橙色だいだいいろの大波が輝いていた。

 は、とうに落ちたはずなのに。

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