クソデカ感情を学ぶための習作

 ビール八本を詰めたビニール袋が手のひらに食い込む。夏美なつみは何度目かの持ち替えをした。エレベータのガラスを見つめて微笑む。顔の感覚を維持したまま足早に歩き、空子からこの部屋の前で一呼吸、インターフォンを鳴らした。

 カン、と鍵の外れる音がした。


「おはようさーん」


 黒縁メガネの奥、空子の瞳はとろんとしていた。ほのかに香るアルコール。


「買ってこさせて先にやるかね、フツー」


 夏美は顔の感覚を維持した。


「昨日オメーが飲んでなけりゃ二缶あったがや」

「方言は、また誰かの小説の影響かい?」

「うるせい」


 へらっと笑い、空子が手招きながら振り向く。夏美は袋を持ち替えた。温まった醤油の匂い。作りすぎた肉じゃが。定食屋とは少し違う。

 二歩先、空子の後ろ頭に化粧筆の先みたいな括り髪があった。


「まげ」


 言って、夏美は毛先をつまんだ。

 首をカクンと反らし、空子が振り向く。


「うぉい! 禁じ手ぇ!」

「大銀杏には早いやね」


 空子が向き直るのを見計らい、夏美は髪に触れた指先を擦り合わせた。冷蔵庫にビールのパックと猫の絵柄のクラフトビールを一本いれた。


「私の分もー」


 夏美は苦笑して猫の缶に触れた。息をつき、パックから一缶だした。空子のちょんまげの下の、白いうなじにビールを当てた。悲鳴に笑い、皿のあった彼女の斜め横に座る。空き缶が二つ。底の浅い植木鉢みたいな皿に山盛りの肉じゃが。


「んでは――作りすぎたかったカレーに乾杯」

「はあ?」

「話せば長いのだ……」


 語られる経緯に笑いつつ、猫のビールを飲んだ。青りんご味。ビールというよりエールだな。夏美は肉じゃがに箸をつけた。


「――で、思ったね」


 空子の声に耳を傾け、芋を口に入れた。想像以上に優しい味だった。


「夏は美しい、と」


 ブッ、と夏美は思わず吹いた。


「うぉ!? なんだ!?」

「……しょっぱくてビビった」

「え、マジ!?」

「やぁ、こらぁビールのせいだは」


 慌てて缶に口をつけた。


「お? 何それ」

「クラフトビール」

「へえぇぇ……一口くれん?」

「冷蔵庫」

「マジ!? 今日は気が利くじゃねぇか……」


 演技がかった調子に首を振り、夏美は缶を置いて箸を取った。途端。

 空子が缶を取り口をつけた。


「おおー……いいねぇ」

「冷――」

「うん。もらおう!」


 缶を置き、空子が立ち上がった。


「モテる女は違うねぇ」


 という声を聞きつつ、夏美は缶を口に運んだ。


「香水も変えてくるしさぁ」


 夏美は唇を撫でた。だらしなく緩んでいたので、手で隠しておくことにした。

 

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