ヴォイス

 降り落ちる雨粒から逃れるように、真知夫マチオは樹に寄り添った。大気の熱量と裏腹に冷めゆく躰。真知夫は息を大きく吸い込み、口を開いた。

 一音。

 異様に澄んだ、異形の大声。

 鬼気迫る音圧が公園に響き渡った。


 ――まだ、足りない。


 真知夫は声を絞った。途端。

 この世のものとは思えぬほどに濁り果てた。

 項垂うなだれ、足元を見つめる。


 ――伝説のテノール、マリオ・デル・モナコは太陽を恥じ入らせたという。


 俺の声ときたらと真知夫はくらい目で雨粒を見つめる。

 息を吸い、歌う。

 だが。

 雨粒ひとつ揺らせない。

 片田舎で褒めそやされて、調子に乗って東京に来て、声楽科なんて魔境に首を突っ込み、心折れ――。

 腹の虫がぐるると鳴った。真知夫はポケットに手を突っ込む。湿った感触。穴開きがひとつに重いの三つ。自販機すら遠い。

 ぽつぽつと、雨脚が弱まったのを見計らい、真知夫は木陰から出た。

 根がいやしい所為か、気づけば商店街にいた。ぷぅんと漂う香ばしさ。腹が恨めしそうに鳴った。

『フレッシュミート長宗我部ちょうそかべ』の、薄曇りしたガラスケースの内側に、コロッケが並んでいた。しかし。


「一枚、百円……」


 声に出ていた。店主らしきランニングシャツの老人が、


「あい、らっしゃい」

 

 と、しゃがれているがたくましい声で言った。


「何にしましょう」

「あ、あの……コロッケ、八十円にまかりませんか」


 顔を見れなかった。


「シケてんね、兄ちゃん。なるわけねえだろ」

「す、すいません……でも……」

「んなこと言われてもね」


 老人はコロッケを二枚、取り出すと、一枚を咥え、もう一枚を紙にくるんで差し出した。


「二枚で百八十円だとさ。細けえのねえから、兄ちゃん八十円な」

「……あ、ありがとうございます……!」


 真知夫は両手で受け取り、一口かじった。ペコペコと頭を下げ、大事に食べつつ商店街を抜け、ようかというとき、


「……へったくそだなぁ」


 思わず呟いていた。

 音は『コペンハー軒』なる店の裏手から聞こえた。

 騒音寸前で走るドラム。全てを踏み潰すベース。必死に食らいついているが、暴走するサイに引きずられていくギター。

 真知夫はコロッケをかじり、じっと聞く。

 ゆすり、ゆすり、と、気づけば躰が揺れていた。

 決して心地よくないはずなのに。

 どこか懐かしい、これは――


小原おはら節だ……」


 律動リズムも音色も違う。でも、歌詞だけは故郷のそれだ。

 時折やたら濁る声。悪くないが情が足りない。


 ――そうじゃねえ。


 そうじゃねえよ、と、真知夫はガレージを叩いた。

 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る