非合理

「何事もそうだが、目的の対極に真価はある」

 

 男は青いロックグラスに丸氷を落とした。淡い照明が、切子細工きりこざいくの蛙を通し、テーブルに影を広げる。


「たとえば、服だ。最終目標は脱がすことだ。だから沢山着ている方がいいし、脱がしにくい方が価値が高まる」


 女が、蛙の影を見つめて言った。


「つまり、松坂牛まつざかうしの霜降り百パーセントミンチで作ったチーズインハンバーグには、デミグラスソースもかけた方がいい?」

「……いや、そうじゃない」

「上に大根おろしを乗せるの」

「言い方が悪かったか」


 苦笑し、グラスに低脂肪乳を注いだ。影は消えた。


「こういうことだ。酔いたいとき、酒から最も縁遠いものを飲む」

「つまり、カレイの煮付けにはケチャップ?」

「……なんで料理に例えようとする」


 男はグラスを口に運び、顔をしかめた。溶けた氷で薄まった低脂肪乳は味など殆どしない。


「素っ裸の女がベッドで寝ている。扇情的にしたいなら、どうする?」

「鯖の水煮を味噌で煮る?」

「……まず、うつ伏せにするんだ。見たいものを隠す。もっと魅力的にしたいならシーツも一枚かける。次は服だ。脱がしにくそうで、ベッドの対極にある服がいい」


 女が、テーブルに落ちた水滴を指で伸ばし、蛇の絵を描いた。見事な筆致だった。


「チーズを挟んだ鶏の唐揚げには、レモンを絞って、七味マヨネーズとウスターソースをかけるってことね?」

「たとえば編み紐だらけのフリルドレス。もっといえば着物。十二単じゅうにひとえまでくると最高だ」

「そうね」


 男は思わず顔をあげた。

 女は言う。


「しっかり蒸した温野菜は素揚げして、タルタルソースで食べるのね」

 

 男は顔を伏せ、丸氷を指で回した。乾いた音を立てた。女の手が滑り出て、その細い指先で低脂肪乳の液面に触れ、水で描かれた蛇に乳白色の足を加えた。美しい蛇足だった。

 ふっと鼻を鳴らして、男はミルクを飲んだ。


「そういうことだ。蛇に足を――」

「ダックスフント」

「……何?」

「ダックスフントよ」


 男は静かにグラスを置き、底で、足の生えた蛇にしか見えないダックスフントの絵を擦り消した。


「おちょくってるのか?」


 声に怒りが滲んでいた。

 女は意外そうな顔をして言った。


「あなたが言ったんじゃない」

「……何?」

「『目的の対極に真価はある』って」

「……何が言いたい」


 女は悠然と笑い、薬指で光る銀色を撫でた。


「口説くなら難しい方がいいんでしょ?」

「……それはそうだが」


 いくらなんでも難しすぎやしないか、妻よ。

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