生乾きもの屋

 生乾きもの屋『ファンタスタティック・メイド』店主マスターの朝は商店街の皆が思うより早くない。早朝には遅く、昼過ぎは言い過ぎで、朝じゃないが昼前の前に準備を終える。

 それというのも、仕入れ担当は別で、店主は接客専門であり、ついでにオーナーも別にいて、店主は店主というあだ名でしかなく、やることは朝食をすませ本日のメイド服を選び客引き看板を書くことくらいだからだ。

 小洒落た喫茶店な黒板を前に店主は集中、昨日の猫はドコの子だろと思いつつ、白亜チョークを優雅に泳がせた。みるみる内に浮かび上がる美しき惹句。


『探しものはここにありマスん。』


 日本語でそんな意味になるイタリア語の装飾体。〼だけが日本語(?)の、見かければつい写真に収めたくなる魔法の看板。


「……できた……」


 と、小さいがしかし異様に聞き取りやすい声で呟き、店主はケロリケロリとシャッターを開いた。看板を出し、駄菓子屋『バステトの誘惑』のお婆さんから譲り受けた黒錆びたパイプとくたびれた緑の座面で構成された丸椅子に座り、客を待つ。ほどなくして、


「おはようございマース!」


『本格中華キエフの水』のアンナが来た。


「……こんにちは……」

「ワォ! 今日も可愛いデース!」


 アンナは看板の写真を撮り、店主の手を引き看板の横に立たせもう一枚。店主はされるがままだった。


「……今日は……?」

「魚卵を買いに来たデース!」

「……魚卵……」


 店主はかくりと首を傾げ、滑るように歩いて缶詰を取った。鮭の絵だった。アンナが首を振ると、店主は別の缶詰を出した。鮫の絵だ。アンナが頷く。


「秋田丼に必須デース! モウ朝から変なのに絡まれて大変デーシター。仕入れ遅れたデース」


 一方的に話すアンナと、相槌すら打たず聞く店主。


「短気なオジサン、サーロ麺は秋田でも本格中華でもないとか文句ばっかりデース……」

「……がんばった……」


 店主は少しつま先立ちになり、アンナの頭を撫でた。へへへ、と笑ったが、


「――! こっち来たデース!」


 アンナは店主の背中に隠れた。見れば、眉を吊り上げた中年男が、青い顔の若い男を連れてやってくる。


「ここか! 生乾きもの屋とかいうふざけた店は!」

「……そう……」

「その生乾きものとやらを見せろ!」


 店主はすっと店内を指差す。


「……あ?」


 真空パックの鯵の開きだった。


「……生乾きの……鯵の干物……」


 店主の、透き通る硝子玉のようでいて、しかし覗くと宇宙に投げ出されそうな瞳に捉えられ、男は言葉を失った。

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