茎わかめ

 黒空こっくうを走る雷閃らいせん。ほどなく轟音、鳴り渡り、降り落ちるひょうと大粒の雨が、男のからだを打ち据えた。


「だから傘を持って出ろと……」


 男は自身の浅慮を侮蔑した。彼の地ではオカルト雑誌と嘲笑われる『ムー』の幻想降雨予報に『一拍の晴れ間あり。傘を持たずば死が見えよう』と書き記されていたではないか。


「なんだってこんな夜中に……クソッ!」


 肌を焼く極酸性の水滴と、金剛石を砕く氷塊に、男は天を仰いだ。直撃を喰い、勢いリノリウムの小路に赤い飛沫が散った。

 混濁する意識に、数時間前に目にした呪文が浮かんだ。


茎ワカメとキュウリの千切りをわさびマヨで和えてください。


「……どこに売ってるんだ、茎わかめ……」

 

 男は自身を嘲るように呟き、よろめきながら立ち上がった。眼前で氷塊が散り、鼻を切り裂く異臭を広げながら大地を溶かした。

 キュウリはあった。

 冷蔵庫にあった。

 命の危険を感じずに水分をとれる、貴重な食材だった。手元には酒があった。呪文を見た。これは試すしかないと思った。しかし――、


 茎わかめがなかった。


 一軒目の万屋よろずやには『おつまみ茎わかめ』しかなかった。稀有で、茎わかめに違いないが、わさびマヨには合わないだろう。

 二軒目のイオンモール・インサニティに絶望した。『茎わかめとキュウリのワサビマヨネーズ和え』と名札のついた惣菜パック。絶対に買ってやるものかと、握り固めた拳から血を流した。

 三件目――家影すら見えぬ未開の地、つい先ほど出てきた『活魚のクルーエル・メイド』で、諦念が脳裏を過ぎった。メイド服に胴長を履く口数の少ない店主が差し出してきたのは、乾燥茎ワカメだった。


「水で戻せと……? この地のどこに、人が飲める水がある……?」


 男は疲れた躰を引きずりながら、祈るようにムーを開いた。雨粒に煙を吹くが、構わず、呪文の載っていたページを探した。

 じくり、と文字列が姿を変える。


『生協で買って……』


「せい、きょう……!?」


 バカな。バカな。バカな――!

 生協――真名を生活協同組合とする、万魔ばんまの属する異端の教会。あるいは人里なれば鼻歌まじりに籠を握るだろうが、この地では――


「……あれ。あれ! この地にあれ!」


 男は執念の呪詛を吐き、ページを捲った。そして、


 笑んだ。


 兇貌きょうぼうに臭う漆黒の気配。


「二百キロか……もはや容易たやすく思えるな」


 男は高らかに笑った。大口に飛び込んだ氷塊を噛み割り、唇の端から焼灼の煙を吐きながら、極限の一歩を踏みだした。

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