水中花

 権力者が集うクラブ・ブランルージュは、猥雑で軽薄な熱気に満ちていた。

 恰幅のいい男が堂々と女の胸を覗き、下卑た顔の女が幼気な少年を弄ぶ。飛び交う言葉に品はなく、行いは理に欠け、享楽だけを追っていた。

 女の物色にきていた花菱はなびしれいは狂騒に息をつき、香水臭いババアを押しやった。転んで訴えると騒いだ。やってみろ。礼の親は警察幹部だ。犯罪には政治家より強い。

 ――とはいえ。

 ここも潮時かな、と礼は襟を緩めた。紅白の名に相応しく集まる女もお目出度めでたい。上澄みを頂いた今、残りは鑑賞に堪えないか、盛りを過ぎて枯れゆく――


「お?」

 

 初顔だ。壁ならぬカウンターの花。

 白いドレスに映える浅黒い肌。艷やかな黒髪に一筋の赤。気怠げな視線をグラスに注いでいる。

 礼は内心で舌なめずりしながら近づいた。


「はじめまして。礼と呼んでくれていいよ」


 まず踏み込む。勇気ではなく自信を持って。

 女が退屈そうに言った。


天竺てんじくあおい

「それで肌を焼いたの?」

 

 天竺はインドの別名だ。ふっと葵が鼻を鳴らした。


「色は自前。でも日本人。今どきの冗談じゃないよ」


 知性も充分。


「ごもっとも。この空気にあてられたらしい。お詫びに――」

「どこでもいいよ」


 葵の憂いを帯びた微笑に、礼はまばたく。


「意外と軽いね」

よりは重い」

 

 言って店内を見回す葵に、礼は降参のポーズをした。


「俺の家でどう?」


 葵は答えの代わりに席を立った。生意気でいい。

 そして。


「珍しいね。二階が玄関って」

「拘りの設計さ。さて、まず一杯? 先にシャワー?」

「シャワーはいらない」

「野性的だ」

「人間じゃないから。濡れたら危ないし」


 礼は酒を注ぎ、それを餌に葵を部屋の中央へ誘った。

 

「――不味マズ。何か混ぜた?」

「大事な薬を」

「効かないよ」

「効くさ。ちょっとここ立って」


 礼は葵の立ち位置を調整し、離れた。


「君は水中花って知ってるかな」

「嫌い。濡れると花が開く奴でしょ?」


 礼は眉をひそめた。


「違うよ。


 礼が床を蹴ると、葵の足元に闇が開いた。悲鳴より早く水音が響き、蓋が閉じた。


「濡れると花が開く? なんだいそれ。水中花ってのは――」


 エナメルに閉じ込めた花のことだよ。礼は口笛を吹きつつ階段を降りる。今ごろ必死にガラスを叩いているだろう。無駄と知ったときの、あの絶望の――、


 パチン。


 と電灯を点け、


 礼は目を疑った。


「……割れ、て――嘘だろ? 強化ガラスだぞ!?」


 濡れたら危ないって言ったのに。


 人ならざる者の声がした。

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