冷やされ中華はじめられ〼た。


 『本格中華キエフの水』の入り口で、金髪、碧眼、雪肌のモデルじみた女性が、扉に紙を貼っている。ただのコピー紙だが、よく見れば黄色い蛍光ペンで、


『冷やされ中華はじめられマスた。』


 ぺっ、と近所の文房具店『ライプツィヒ近藤こんどう』で買ってきた練り消しで紙を留め、アンナ・オーレグエヴナ・ヒチョリチョフは満足そうに頷き、すぐ首を傾げた。


「書き直すべきデースかー?」


 白地に黄色の蛍光ペンは読みにくい。しかし、練り消しとコロナ対策用の硬筆用ビニール下敷きを買ってきたばかりだ。マジックも切れてましたと再訪するのはハードスケジュールである。

 じぃっと思案していたアンナだが、


「ま、いいデース!」


 にっこり笑って店に戻った。

 料理番組で可愛らしいタレントが食材の気持ちになって解説しているのを見、これだと思った。受動態で書けばお客さん増えるデース、と。

 しかし、日本のテレビに日本好きをアピールし、招待され、ホテルから逃亡、全国を飛び回ること二年、日本語は未だに難しい。

 漫画で見た『あり〼』という表記を使ってみたら、可能性に言及しているようになってしまった。咄嗟に『た』を加えるファインプレーも出たが、なんだか東京弁みたいだ。


「ふふっ、私も立派な東京びとデース」


 アンナはキュウリを千切りにしつつ微笑んだ。

 ファミリーマートと同じチャイムが鳴り、ケロリと戸を開け、若い男が入ってきた。童顔で女顔だ。


「おい、表のアレ、なんだ?」


 だが口は悪い。

 アンナは厨房からひょっこり顔を出して言った。


「らっしゃせーデース! 冷やし――」

「見りゃ分かる。日本語が変だ」

「標準語は難しいデースネー」


 からっと笑い、アンナは伝票片手に水を出した。

 男は一口飲んで言った。

 

「……秋田だっけ?」

「そうデース!」

 

 なんでも言ってみるものだ。みんな信じてくれたらしい。

 

「なんで冷やし中華?」

「『コペンハーゲン』さんがはじめてたデース!」

「ありゃ冷やし中華じゃねえ」

「なんでデスカー? よく似合って――あっ!」


 アンナは店の前を横切っていった背中に呼びかける。


長岡ながおかサーン! ナーガオーカサーン!」


 しかし、振り向くことなく遠ざかっていった。


「聞こえてなかったデースかネー?」

「……則岡のりおかじゃなかったか?」

鳴岡なるおかサンだったかもしれないデース」

何岡なにおかでもいいよ。それより注文。冷やし中華」

「ヨロコンデース!」


 そして。


「おい! 何だこれ! 真っ赤じゃねえか!」

「秋田名物ボルシチ中華デース!」


 

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