冷やし中華はじめました。

 うだるような暑さ。ぼくは癒やしと冷房を求めて街を彷徨い歩いていた。主に求めているのは冷房で、街といってもご近所だった。諸悪の根源は無期限ストをはじめたクーラーにあり、また、無を冷やすという哲学的命題に挑む冷蔵庫と、それをすっかり忘れて空腹を訴えた僕の胃袋にある。

 折しもコロナ禍下かかマスクあっちっちである。息吹は眼鏡を曇らせ、不織布の繊維は剃り残しの髭にからみつく。いやンばかンだ。

 もちろん、思考は酩酊状態。

 

「なあ相棒、どこで腹を満たす?」


 音にしたら赤面するような言葉が漏れてしまうほどに。

 近所の商店街には多くの飲食店が軒を連ねていたが、このご時世、どこも苦労しているようだった。

 オランダ家屋を模したキャンディな外観を育ちすぎたワイヤープラントに覆われてしまった喫茶『メリーゴーラウンド』は『コロナこわい』の張り紙だし、二年前に街にきたトルコ人メフメト・手見デミルさんのネパール風インドカレー屋『ケバブ食べようよ』はテイクアウト専門となった。

 ――元から店内という概念がないくせに。

 

「アッ、ボクさん! お昼イマ?」


 メフメトさんが白い歯を見せた。

 だから僕は、僕は僕さんじゃないんだってと思いつつ小さく頭を下げた。

 

「だったらドゥ? タコス美味しいヨ。ヨーロパカリー味だヨ」


 だから、あんたは何屋をやりたいんだよ。

 

「それをイーチャおしめえヨ! ボクさん!」


 ハハハ、と笑った。いかん。また声に出ていたらしい。

 僕はマスクを引っ張った。


「暑いし、カレー味はちょっと」

「なら『コペンハーゲン』ヨ!」

「……なんで?」


 コペンハー軒はデンマーク人の店主が地元で食べたラーメンに惚れ込み緊急来日、修行せずに開いた町中華だ。一番のウリは炒飯チャーハンで、四川風レバニラ炒めなどはフォアグラを使っているだけあり値は張るし美味しいとは何か考えさせてくれる。

 メフメトさんはバーガーキングのワッパーチーズに齧り付いた。


「冷やし中華ハジメたヨ!」

「なるほど」


 ものすごくなるほどし、僕は礼を言ってコペンハー軒に行った。

 曇ったガラス戸を開くと、


「いらっしゃいアルー!」


 ぽっちゃり年上好きの店主が見初めた還暦を迎えたばかりの夏代なつよさん七十三キロBMI三十一弱が、ミニスカチャイナドレスをパツパツにしていた。くわえて、ネズミの耳を思わせるお団子ふたつ。骨董化したチャイナ概念。


「見て! コペンハー軒、冷やし中華はじめたアル!」


 照れがない。

 冷やし中華が、はじまった。

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