おにゃんこポンダ

 夕霧ゆうぎりは洗面所の鏡を見つめていた。とろんとした黒い瞳、生まれながらの困り眉、女顔といわれる狭い顎、結果としての八重歯、ぽとりと滴る水の粒。庇護欲をかきたてるとかで女ウケはいい。二言、三言、話すと逃げられる。当然、男ウケは悪く、話せば分かりあえる。

 洗面台の、獣の抜け毛が残る白陶器の手洗いボウルの、飛沫しぶきで濡れて光る蛇口の横で、赤いスマートホンが苦しげに震えた。一度、二度、三度と崖へ寄り、水場への投身自殺を企んでいる。


「働き詰めだもんな」


 夕霧は、同情しつつも、自死という短絡的な逃亡は阻止した。畜生は群れる。機械でも、社畜でも、同じだ。残り二十八%で寝落ちするとか脅しても無駄だ。休ませない。俺が休まないように。指を滑らせスピーカーにする。


「――――」

「――――いや、なんか言えよ」


 昨晩、予知を依頼してきた男だった。


「――――」

「――――なんか言えって。聞いてるか?」


 夕霧は鏡を見つめ口を開いた。大きく、一度、二度。五年前に治療した奥歯の被せものが目につく。口を閉じ、舌で頬の内側を、右、左と押し、真新しい三本線の傷が残る手で頬をピシャンと打った。


「――今のは? どうした?」

「口が職場放棄してた」


 男が鼻を鳴らした。蛇口から水滴が落ちた。水栓を緩め、締め直した。夕霧はスマートホンを水平に保ち、白いハンドタオルを顔に当てながら居間に戻った。電気はつけず、レースカーテン越しの月明かりを頼りに、へたりかけた一人用ソファに腰を下ろした。正面に立つ一本足の小さな丸テーブルに、スマートホンを置いた。

 チリン、と暗闇で鈴の音が鳴った。


「もういいか?」

 

 夕霧が尋ねると、男は息をならしながら言った。


「すまん。ツボにはまった。おかげで今回は助かったよ」

「報酬はもらってる」

「多くは語らずか」

「口が休みを取れば」


 くぐもった笑い声が聞こえた。


「――ひとつ聞きたい」

「何だ」

「どうやって未来を予知する?」

「にゃんこポンダ」


 一瞬の沈黙の後、男が尋ねた。


「何だと?」

「にゃんこポンダだ」


 闇の中から猫が出てきて、夕霧の膝に乗った。先ほど丸洗いされ黒い毛並みは、まだしっとりとしていた。

 猫は、膝の上でおすわりし、顔を洗った。

 夕霧は窓の外の夜空を見つめて言う。


「雨がくる」

「何?」

「猫は宇宙と繋がり、人に予言する」


 押し殺すような笑い声。


「にゃんこポンダか」

「お前は敬え」

「何?」

「おにゃんこポンダだ」


 宇宙と社畜を中継する家畜だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る