ポリコレ棒

 緊急で相談したい、と楠丸くすまるに電話で呼び出され、喫茶店で待つこと二十分。私は頼んだカプチーノに手をつけられずにいた。

 普段の楠丸は思考の痕跡が感じられない声で話し、緊急の代わりに暇かと尋ね、相談の代わりに飲もうと言う。

 ――それが。

 借金か。連帯保証人か。ありえない。楠丸の実家は裕福で、結婚相手の家もほとんど貴族かと思う富豪だ。

 私の脳裏を一つの言葉が過ぎる。

 ――不倫。

 ありえなくはない。風呂嫌いで不潔だが、なぜかモテた。親しくなる前は――なった後でさえ――実家が金持ちだからだと思いがちだが、違う。金持ちの実家を誇らないからモテるのだ。そのくせ金払いはよく、喧嘩っぱやく、親しい人と話す時の熱意と陽気さは素晴らしい。私自身もファンである。


「……いったい、なんだってんだ」

 

 私は冷めてしまったカプチーノを取り、外に目をやった。


「お。」


 そのまま口をつけずにカップを置いた。楠丸がきていた。真っ青な顔で、マスクの端から立派なヒゲを零し、腹の贅肉を揺らしている。何をそんなに慌てているのか。

 ふたたびカップに手を伸ばすより早く入店し、彼は私の前に座った。


「久しぶりだな楠丸。どうしてた」

「あ、挨拶はいい! 凄いものを手に入れたんだ!」

「へぇ?」


 私がカップを持ち上げると、楠丸が喉を鳴らした。


「ポリコレ棒だ」


 私は一滴も飲まずにカップを置いた。


「何?」

「ポリティカル・コレクトネス棒だ」

「……病院には行ったか?」

「ほ、本当なんだ!」

 

 突然の大声にウェイトレスがミニスカートを押さえて振り向いた。

 私は苦笑いで会釈し、楠丸に尋ねた。


「ポリコレって、政治的に正しい――」

「それだ」

「だが棒ってのは比喩だろ?」

「違ったんだよ!」

 

 なぜか小声になり、楠丸が懐から棒を出した。

 見た目には寸足らずの角材だ。管理番号なのか黒字で一九一七と書かれている。

 私の疑義まじる視線に気づいたか、楠丸が説得的に言った。


「本当なんだって……!」

「……じゃあ今ウェイトレス呼ぶから、それで叩いてみてくれよ」

「何……!?」

「見ろよ。あんな短いスカートでさ。時代錯誤だ。叩いて直してやれよ」

「お前は何を言って……!」

「ポリコレ棒なんだろ?」


 私はウェイトレスを呼び、カプチーノに手を伸ばした。

 楠丸が低く唸りながらポリコレ棒でウェイトレスを叩いた。途端。


「労働者は立ち上がらなければならない!」


 そっちか、と私は思わずカプチーノを零した。

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