第18話   記憶があるままに②

 探偵事務所は第二ビルの一階だ。おかげで外に出るのが容易だった。


 有沢が運転席に、俺は助手席に、はクマのぬいぐるみのせいで無理なので、後部座席に乗りこんだ。このクマ、なんなんだ……。


「はい出発、エンジンかけまーす」


「おー」


 空は気持ちの良い、朝の日差しだった。空気の匂いは、俺の知らない土地のものだが、何十万回とお天気の機嫌ばかりうかがってきた俺の目は、ごまかせない。

 うん、朝だ。朝の九時頃だ。


 世界中の空を見上げてきた。

 俺は、ずっとあの空に秘められたる巨大なエネルギーが欲しかった。


 今すぐにでも、研究所へ帰りたい。あそこは俺の家だ。今までの思い出がぜんぶ消えてもいい、あそこで永遠に研究し続けられたなら、どんなにか幸せだろう。想像するだけで、しんみりと目を閉じてしまう。


「寝てるの〜?」


 運転しながら、有沢が尋ねた。


「ああ、寝覚めのカフェインが足りなかった」


「三杯も飲んだでしょ? 飲み過ぎだよ」


 有沢は笑っている。


「さあ、喫茶店のオーナーを拾いに行こう」


「起きてるといいな」


「そうだね。起きてなかったら、どうする?」


「起こすさ。今後の商売に影響が出るのは、俺じゃなくてオーナーなんだからな」




「おはようございます……」


 佐々木さん、いや、今は島田さんか、彼は眠いをこすりながら、店の外を箒で掃き掃除していた。粉砕されていた表のガラスは、何事もなかったように、綺麗にはめ直されている。


 やっぱり今は、朝みたいだな。昼過ぎって設定でいきたいようだから、合わせておくが。


 島田さんは、昨日の有沢より浮かない顔色で、うつむいている。


「いい朝ですね……」


「あの、顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」


「ええ……小さい頃から、争い事が苦手で……話し合いや妥協案に応じてくれない相手とは、どう接したらよいのやら戸惑います」


「誰だってそうですよ。ですが、今日は有沢と俺がついていますんで。安心しろとは言えませんが、相手は二人組のバカップルで、こっちは三人。数なら勝ってます」


「……」


 どうしたんだ、今日の島田さん。演技でそんな顔してるわけじゃ、なさそうだな。なんて声をかけるべきだ?


「島田さん、行かないんですか?」


「あぁ、はぃ、行きますよ……今日のために、炊飯器でチャーシューを作ってきましたから」


 なぜに。


 ああもう、いいや、クソゲーにツッコミを入れる時間が惜しいわ。


 島田さんは肩にクーラーボックスをかけて、店から出てきた。その中に、炊飯器で作った肉料理が入ってるんだな……。


 俺は地図係を買って出て、ときおり地図と道順を照らし合わせては有沢をナビゲートした。


「相変わらず、落書きが多くて見づらい地図だな……。あ、そこの花屋(書き割り)を左折だ」


「あーい」


 ふふーん、と俺は内心でほくそ笑んでいた。


 悪いな、有沢っぽい謎の少女よ。俺は適当に主人公役をこなして、さっさと研究所に戻るよ。


 患者だなんだとマム的な女が言っていたが、大きなお世話だ。研究者は門外漢からは病気だ変人だと罵られる運命なんだから。


慣れている。

戻らないと。

あの場所に。

雷の研究のために。


 そのためだったら、俺はどんな役だってしよう。雷に撃たれた死体役でも構わない。


 ああ、言語で表現している暇も煩わしいほど、この時間が憎い。俺は早く、早く早く、戻らなければ、戻らなければ、戻らなければ、戻らなければ。


「そっち、右だ」


「あーい」


 有沢がハンドルを右に切る。枯れた草木が目立つようになってきた。全体的に不健康な背景だ。近場の工場で、薬品でも垂れ流しになってるんじゃないのか。


 ……って、この風景は。地図に指定された廃墟ってのは、この近くだったのか。


 有沢が急にハンドルを切り、路肩に停めた。


「どうした?」


「うん……ちょっとね……」


 ハンドルにひたいをぐったりと乗せて、有沢の顔が、黒い前髪で見えなくなる。


 後部座席の島田さんも、気乗りのしなさそうな、ため息だった。


「どうしたんだ、お前ら」


「ちょっと降りる。気分が悪いんだ」


「あ、俺も降りるぞ!」


 この車に、この場所って言ったら、催眠ガスを食らったときの記憶が真新しい。有沢の手にリモコンはなかったが、念には念を入れないと、またムダな時間を過ごしてしまう。


 一緒に降りたはいいが、その先を何も考えていなかった。車からは見えなかったが、有沢がふらふらと歩いて行った先は、袋小路になっており、半袖長ズボンの素朴な格好をした男女が、集まって空を眺めていた。


「僕らの知らない、何か大きな事件が、後ろで動いてる」


 有沢が俺に背を向けたまま、急に話しかけてきたから、俺は戸惑った。


「あ、ああ、そうみたいだな」


「……この先は、何が起きるかわからないよ。それでも、行くの?」


「ああ。そうしないと先に進めないだろ?」


「……先って、なに?」


 なんだ? 機嫌が悪いな。またホットチョコでも欲しくなったのか?


「ねえ雷門博士、拳銃を持っている相手のもとに、どうして行きたいの? きみにも僕にも佐々木さんにも、危険が及ぶんだよ。それなのに、どうしてきみは愚痴もこぼさず、この先に行こうとしてるの? 自分や他人の命に代えても、研究所に帰りたい? 誰かの命を犠牲にしても、帰りたい場所ってなんなの?」


「そ、それは――」


 しまった、俺が記憶を取り戻したことが、バレてたのか……。


「きみさぁ」


 有沢が腰に片手を当てて、俺を下から睨みつけた。


「それじゃなんにも、変わんないんだよね」


 後ろから気配がして、振り向いた。それと同時に、顔の知らないスタッフ的な人物が、俺の二の腕にスタンガンを押し当てたのは同時だった。


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