第19話 効かない投薬①
水中から顔を出したように目が覚めた。荒い呼吸音が自分のものだと気づくまで、少しかかった。
ここは、またあの廃墟部屋? 黒いユリの形したシャンデリアが、俺を見下ろしている。
「……目が覚めた?」
背もたれの大きな椅子が回転し、座っていたのは、有沢姫乃だった。
俺は冷や汗が止まらなかった。
目の前で足を組み交わす少女が、非常に落胆したような、不機嫌きわまりない顔で椅子の肘掛けに肘をついて、顎をのせている。目線は壁の向こうだ。俺とは向き合いたくないようだな。
「僕は有沢姫乃。この部屋の主だよ」
有沢の瞳が俺を向いた。
「ねーえ、少しだけでいいから、ここで
「有沢」
「ほんと、ごめんね〜? 頭ぼーっとしてるところ、いきなりこんなこと言われてもわっかんないと思うけどさー」
「わかるよ、有沢」
「わかるって、どういう意味?」
「わかるよ。さっきまで俺たちは、探偵ごっこしてたよな」
有沢の不機嫌そうに細くなっていた目が、驚きに見開かれた。
「お前の運転する車に乗って、依頼人と三人で、犯人からの指定地に赴こうとしていたんだよな」
「きみ……なんで、覚えてるの?」
「逆に訊くぞ、なんで俺が忘れてるって思ったんだ?」
「……」
「残念だが、お前たちが乱用している薬物治療は、俺には効果がないようだな」
「もっと投薬の量を増やさないとね」
「逃げるな!」
俺は前のめりになった。有沢に近づくのを、両手を縛る縄が引き戻した。振り返ると、背後の壁に、縄が固定されていた。
俺は有沢に向き直った。
「聞いてくれ。俺の治療を、このまま進めていこう」
「んん? どうして?」
「今、お前の預かり知らないところで、何かが動いてるんだろ。それでお前は困ってるんだ。そうだろ?」
「……うん、そうだけど?」
彼女の顔は正直だった。演技する余裕がないのかもしれない。
「頼む、有沢。俺の話に乗ってくれ。俺の全権は、今やお前たちの手の中にあるんだ、そのお前たちでも制御できない状況にあるなんて、俺は願い下げだ。帰れないかもしれない、何が起きるかお前たちにもわからない、そんな状況で、俺をこんな部屋に置いていかないでくれ!」
「…………。僕たちと敵対している勢力が、この施設に多数侵入していたことがわかったの。僕たちの会話も、どこかに仕込まれたマイクで拾われてるかもしれないよ」
「だろうな。お前たちだって、仲間同士で頻繁に音を拾い合ってるだろ。いくつか、事前の打ち合わせ程度では噛み合わない出来事があった。今の俺との会話も、外にいる仲間に拾わせてるんだな」
「……それでも、やるの?」
「ああ。やらせてくれ」
ヘリが到着するまでの時間、俺は、騙されている患者のふりをしながら、バカみたいに主人公を演じてやる。どこまで敵をあざむけるか、もしかしたら、全て筒抜けになっているのかもしれないが、それでも――敵をだませる可能性がゼロじゃないんなら、賭けるしかない!
あの犯人たちが、地図に描かれていた廃墟で何をしたいのか、正直に言えば全く興味がない。俺はただ、早くこの物語を終えて帰りたいんだよ! あの研究を再開するために!
「……ハァ。このプロジェクトは大失敗だね」
有沢がゆっくりと立ち上がり、部屋を歩きだした。
「きみをここへ託した依頼人は、きみの右腕と名高い、後輩くんだよ。覚えてる?」
「ああ。大学の登山部で脱臼したやつだ」
「そう、覚えてるなら、話が早いや。彼はきみが十年間も寝不足と過労と栄養失調のまま働いているのを、とてもとても、とーっても心配していた。だからきみを、ここへ託した」
「……ここなら、俺がぐっすり眠れて、だらだら過ごせて、仕事のことから思考を切り離せる……俺を休ませることが、狙いだったのか」
「世の中にはね、世界中の有益な天才たちを、過労死させたくない組織があるんだ。それが、ここ」
有沢が窓に近づいた。カーテンのない窓から、よく晴れた空を見上げる。
「でも、失敗しちゃった。きみを暗殺したい人たちが、この施設に紛れ込んじゃったみたい。このままきみを預かっていたら、きっと危ない。……だから、きみを返そうと思う。きみの大好きな、研究所へ」
「暗殺? 俺は研究だけやってる人間だ。失敗続きで、まだ歴史的な成果も上げてないのに、どうしてそこまで恨まれてるんだ?」
「本気でわからないの?
有沢が心底あきれた顔して、振り向いた。
「いい? よく聞いてね。きみは雷を研究する科学者で、今は偉大なる研究の、初歩的な実験段階にあり、そのために開発された試作品の機械が、ドっでかいの。設置するだけで、周りの自然環境を破壊しちゃうくらいに。地元の人達が、今も撤去を求める抗議活動を続けてるよ」
ええ? だって、あの島での設置許可は、ちゃんと取れたって、聞いたんだが……。
「そもそも、優秀なきみの研究には、最初から反対派が多かった。まず、雷によって莫大な電力を補える装置が開発されちゃうと、それまでの電力発電で働いている大勢が、失職しちゃうことになるでしょ? 水力発電、火力発電に風力発電、石油のお商売、そのほか電気を生み出すためのあらゆる方法と商売が、みーんなきみの発明品によって必要なくなっちゃうんだよ? 環境には優しいよね、でも、世界の経済の仕組みも、あり方も、ちょっとしたご家庭のお金の消費の形まで、すべてがきみの発明によって大きく変化してしまうんだ」
なんだそりゃ? そこまで大袈裟なことになるなんて、考えたこともなかったぞ。
「俺の研究は、まだまだ実験段階だ。そんなにすぐには、世間で重要視されないと思うぞ」
「もう、謙遜しちゃって。きみが開発したあのジェル避雷針、調べてみたら、そうとうヤバい傑作だったよ。現在は世界中のお金持ちが、きみの研究に期待するあまり、それまでの電力発電装置に投資していたお金を出し渋ったりと、景気もじわじわと変わってきてるんだ。きみの研究のせいで、資金不足に喘いでいる会社がいっぱい出てきてるってわけ。世界中でね」
「そんな。誰もそんな話、してなかったぞ」
「してなかったのかもしれないし、きみが興味なくて忘れちゃってるだけかもしれないね」
金や経済の話なんて、興味がなかった。ただ、うちで確保できる予算のことばかり考えていたっけな。
っていうか、他の人間の財布事情なんて、そんな細かい部分まで考えていられないだろ。みんな自分のやってる事だけで、手一杯なんだ。俺だってそうだ。
「さて、そんな非凡極まりないきみだけど、大の研究バカで、自分の体調管理もままならないときた。ほぼ不眠不休で何かを計算していること、ラーメンとコーヒーだけで生きていること、風呂もしょっちゅうさぼること、そして何より問題なのは、雷から生じる電気を貯める装置の、すぐ間近で観察したがること」
「細かい観察がしたいんだ」
「カメラで撮影して、あとからパソコンで読み込んで画像の解像度も好きなだけ上げればいいだけの話でしょ?」
……間近で雷の威力を感じたいんだ、って言ったら、ヒールで蹴り飛ばされそうな予感がしたから、やめた。
「いつか、きみに雷が直撃するかもしれない。その可能性は、後輩君の計算上、けっして低くはないそうだよ。世界が期待する頭脳が、雷に当たって黒こげになっちゃう。そうなってからじゃ、もう取り返しはつかないよ? もし生き残ってたとしても、全身大火傷したままで、研究が続けられる? 治療に何年かかると思ってるの?」
う……。か、雷を前にすると、後先を考えなくなる自分がいるんだよ。
「さらにきみは単独行動が好きで、護衛も友達も連れ歩かない。暗殺を懸念されるほどの超有名人なのに、ちょっとした買い物まで一人で行ったりさ。まるで自殺願望者だね」
「俺はずっと研究室で、大勢と仕事してるんだ。たまには一人になりたくなるだろ」
「……ハァ、自分が殺されるかもしれないって自覚、少しは持ちなよ」
「んな、大袈裟な。それじゃあ、俺はどうすればいいんだよ。四六時中、誰かに守ってもらうなんて、そんな大統領みたいな生活しろっていうのか?」
「その通りだよ。むしろきみには、もうちょっと自意識過剰になってほしいくらいだね」
勘弁してくれよ……。
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