第17話 記憶があるままに①
目を開けると、俺は四人掛けの古いソファに足をのばして横たわっていた。傍には雑誌や書類が雑に積み重なっているテーブルが見える。俺が飲み終わったコーヒーのカップが置いてあったはずだが、なくなっている。
「おはよ」
有沢の声がしたが、部屋のどこにいるかを確認するより早く、俺は大あくびして、腹を掻いていた。
「俺はどれくらい寝てた」
「丸一日だよ。誰が車からソファに運んだと思ってる? その辺の通行人のお兄さんたちに頼んだんだよ」
事務椅子に座っている有沢が、趣味全開の雑誌を読みながら尋ねた。声の感じに、あんまり気合いがこもってない。
俺がいろんな身支度で、もたついているのを、特に急かしもしなかった。
有沢姫乃……今の俺のいちばん近くにいて、もっとも素性の知れない相手だ。
「まだ目が覚めない。コーヒーをブラックでくれるか」
「もう。これから喫茶店に行くんだから、飲んでくればー」
「頼む。今すぐ欲しいんだ。適当に淹れてくれて構わないから」
有沢があきれ顔で、わかったよ、と言って雑誌を机に置き、一つしかない部屋の扉から消えていった。
ソファ向かいの壁の、柱時計を見上げた。昼の三時かぁ、ずいぶん寝たもんだ。
あれ……? 窓から差し込む明るさと、時刻が一致しないぞ? 今は、朝なんじゃないか?
あ、短針も長針も止まってるじゃないか。おめでたい事務所だな。今が何時か知らないが、久しぶりにぐっすり寝ることができたよ。頭が冴えて、すっきりしている。
奇妙な夢が走馬灯のように流れてきたせいか、記憶もはっきりしているぞ。自分が何者で、どこにいるべきで、何をしなくてはならない人間なのかを、はっきりと自覚している。
この施設に入所する直前の記憶だけが、未だに思い出せないが、これもそのうち、ぽっと出てくるだろう。拳銃で撃たれたらしい記憶も、べつに思い出せなくてもいいしな。
さて、早く施設から出所しないと、俺の貴重な時間が無駄にされてゆくばかりだな。ここで得られる情報は、ゲームやフィクションだらけだ。集めるだけ無駄か、ほぼ役に立たないと思ったほうがいいだろう。
……。
さっきから、コーヒーを淹れている食器の音どころか、何の音もしないが、扉の向こうに誰もいないのか? 人の気配と言うものが、全くしないんだが。
扉が半開きで俺を誘惑する。大勢働いているはずのこの施設だ、脱走しても、どこかで誰かに見つかって、また捕まるような気がする。それでも、ちょっとばかしこの部屋の外が、どうなっているのか、見てもいいよな。気になるんだ。せっかく、ちょうど良い隙間が空いてるんだし。
と言うわけで、鍵を閉めなかった有沢が悪いという名目の下、俺は抜き足差し足で、灰色の廊下を進んでいった。
げげっ! 結構、人が歩いてるじゃないか。この施設のスタッフはどうなってるんだ、気配が服屋のマネキン並みに薄いぞ。息してるのか!?
あ、あのゴスロリな背中は有沢だ。なんかすごい整形じみたマネキンっぽい外人美女に近づいて、話しかけたぞ……。
「お母さん、例の二人組について、目星がついたよ。普段は大道具をやってる二人だった。化粧で化けてたけど、顔の骨格には見覚えがある」
「あら、でも衣装さんも大道具さんも大勢いるから、名前を上げてもらわないと、検索するのが難しいわね」
「それが、名前が思い出せなくて。でも、顔は覚えてる。履歴書の顔写真のデータは、どこで見れるかな。名前を見つけて、問いただしてくる」
「待って、マイドーター」
急ぎ駆け出そうとする有沢を、マネキン美女は呼び止めた。うーわ、胸もすごく丸々と張っていて、怖い。どう見ても、作り物だ。
「なぁに? お母さん」
「あたしたちが請け負ってる仕事は、常に状況が変化し、それに対応し続けてかなきゃならないわ。ここで大事な役者である貴女が抜けちゃって、どうするの? 博士、お部屋で待ってるんじゃない?」
「でも、早くしないと、僕だって犯人たちの顔を忘れちゃうよ。ただでさえ役者が変わっちゃっててパニックなのに、さらに拳銃まで持ってたんだよ!? 患者と真摯に向き合う環境が、とてつもない事になってる! うまくストーリーが進まなくて、患者に変なトラウマや後遺症が残ったらどうするの!? 早く犯人を見つけて、捕まえないと」
焦燥に駆られる有沢の姿を見たのは、初めてだった。彼女の細い肩を、マネキン美女はがっしりと両手で掴んだ。
「落ち着きなさい、マイドーター。貴女は有沢姫乃役として集中なさい。裏は、お母さんが探ってみるわ」
励ますような優しい眼差しとともに、肩をパンパンと叩いた。
有沢はその力強い励ましを受けて、未だ魚のように口をパクパクさせていたが、言い訳も不安も、出さなかった。
ぐっと口を引き結び、うなずく。
「わかったよ……ありがとう、お母さん」
ようやく落ち着いた娘に、美女も微笑んで、その手を離した。
「このカリキュラムが何者かの妨害を受けてしまった今、雷門博士をこのまま置いておくのはまずいわね。あたしは博士をここから脱出させるための、ヘリを用意するわ。貴女は博士とイベントをこなして、時間を稼いでいてちょうだいな」
「うん、そっちは任せたから。僕も彼に気づかれないように、がんばるね」
有沢は元気に駆け出した。多分コーヒーを用意するためだろう。マネキン美女は、他大勢のスタッフたちに向かって、手をパァンパァンと叩いた。よく響くなぁ。
「さあ、みんな! 問題児たちがお待ちよ! 予定通りにシナリオをこなしてちょうだい! 休憩時間は終わり終わり! 仕事に戻って!」
俺の他にも入所されてる奴、いるんだな。
ヘリで避難させると言っていたのに、スタッフには予定通りに仕事をさせるとは。どうやらヘリの件は有沢と美女だけの、極秘情報として進めるつもりのようだな。
あのお母さんって呼ばれてたマネキン美女は、ここらを仕切るボスで、ビックマム的な存在か。なかなかかっこいいな。ちょっと見た目がホラーだが。
おっと、俺も部屋のソファに戻らないと。
しっかし、自分の運動神経の無さには失望以外の念を抱いたことがないな。ソファに到着できず、奇妙な中腰で部屋の真ん中に固まっているという、有沢からしたら意味不明な体勢となってしまった。
「おまたせ。何してんの?」
「ああ……うん……ちょっと、テレビとか、ラジオとか? 無いかな〜と思ってな……」
もっと自然な形でしゃべれなかったんだろうか、俺は。
「テレビとラジオ、買わないとね。両方ないなんて、探偵業やれないよ」
「アハハ、同感ダ!」
俺はソファに腰を下ろして、ひとまず、ホッとした。
「今日はどうする? コーヒー、ここ置いとくね」
「あ、ありがとう」
俺は白いカップを、ソーサーごと持ち上げて、丁寧に飲んだ。ソーサーは置いておくべきだったかな。
有沢のいつもどおりの口調は、母親からのアドバイスが利いている証拠だろう。
なんだか妙なことになっているようだが、まあ、俺には関係ないか。ヘリで脱出できるなら、それでいい。
「今日は約束通り、地図にある廃墟へ赴こう」
「え? あ、うん……行こうか」
「ん? どうしたんだ? 歯切れが悪いな」
有沢的には、俺が駄々をこねずに予定通りゲームの世界にひたってくれたら、それでいいんじゃないのか?
「まあ、えっとー、うん……なんでもないんだけど……」
有沢、視線が泳いでるぞ。
仕方ないか、有沢にも予想外の事が立て続けに起きてるんだしな。俺は〜別に、予想外の大事件には驚かないさ。いつだって俺の研究は失敗続きで、予想だにしない予算の流れも、結果オーライで研究が大きく進展したときも、本当に俺にはどうにもできない事ばかりが続いても、いちいちイラついてたら神経がもたないからな。
……研究?
「どうしたの? ライトニング」
「あ、いや、いいんだ。気にしないでくれ」
「具合悪いなら、もうちょい休む?」
「いや、平気だ。お前が車を運転してくれるんなら、助かるよ」
俺は、俺はここに来る直前、なんの研究をしていた? なんの? なんの研究の最中だった? ホワイトボードには黒い水性ペンで、俺が導き出した方程式が、ああ、でも、解けない、これは、なんの答えを得るための、ああとんでもない桁の数値が頭に、なだれこんでくる!
「うう……」
俺のうめきに、有沢が気づかなかったのは幸運だった。よけいな心配されると面倒だ。
そうだ、思い出したぞ。俺はようやく、ジェル避雷針の質を安定させる方程式を導き出したんだ! いざ実践しようと、雷が多発する地域まで旅する計画を立てていたそのとき、タイミング悪く、健康診断の命令が入ってしまったのだ。
まあ、会社命令の健康診断など適当にこなせばいいと思っていた。どうせ診断結果は最低のEだ、こんな生活をしているのだから。べつにEでもいい。俺は研究ができるんなら、それでいいのだから。
有沢たちに捕まったのは、健康診断を受けるために、医師に会ったときだったな。どうせ不摂生してるだろうから、とビタミン類をサービスで注射してもらったんだった。
今思えば、自分にだけサービスの注射だなんて、おかしな状況だったが、そのときの俺は、医師に感謝を述べていたような気がする。いや、述べてた。思い出した。
くっそ〜……。
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