第9話   貨物列車で大脱出③

「ねえ、さっきから何度も同じ質問してくるけどさ、僕は子供の頃のきみには会ったことないよ。だって産まれてないんだもん」


 振り向いた有沢の、長い髪が風になびいた。国籍も年齢も不明瞭な顔立ちが、彼女を二次元めいた存在に見せている。


「……言われてみれば、そうだな……悪かった」


「きっと疲れてるんだよ。そういうときは、思い切って有給申請してくれていいんだよ? 今はダメだけど」


「そうだな……」


 お前の雇用センスは、いったいどうなっているんだ。もっとしっかりした、まともな男を雇えよな。


 雇われた記憶は、ないんだが。


 あ、そうだった、俺は悪党とやらに殴られて、記憶がぶっ飛んだそうだな。自分の本名も思い出せないほどの大重傷を負っている。脳出血を起こしているかもしれない。


 意識がはっきりしているうちに、救急車を呼ばなければ。スマホ、スマホ……って、俺はスマホを、どこにしまった?


「有沢、俺のスマホを知らないか?」


「第一探偵事務所に置いてったでしょ? あ、取りに戻るのは却下ね。依頼人を待たせちゃってるから」


 事務所って言われてもな……さっぱり頭に浮かばない。こう、自分の名刺とか、ポケットかどこかに手掛かりはないだろうか。


 ……ない。なんにも。


「俺は財布もないのか」


「ポッケにティッシュとハンカチもないの? 幼稚園児以下じゃん」


「お前は持ってるのか」


「女の子の私物を把握したいの? やーだ、やらしぃ〜」


「お前の排卵日とか興味ないわ」


「ちょ、露骨に言わないでよ! デリカシーの欠片もないんだね。あと生理は排卵日ではありません」


「そうだったのか」


 って、お前も露骨に言ってんじゃねーか。


「俺のスマホは、さっきの悪党どもに盗まれたんじゃないんだな。それだけわかって、よかったよ」


「なんにも持たないで散歩するの好きでしょ? だからあっさり捕まっちゃうんだよ」


 有沢が前を歩き、俺はその後ろを歩きながら、ふと、有沢の言ったことを反芻した。俺は何も持たないで散歩するのが、好きだった?


 そうなのか?


 不思議なことに、有沢の矛盾について深く考え始めると、簡単な釣りゲームのように、正解がすっと持ち上がった。


「……俺は休憩時に小銭入れを持って、最寄りのラーメン屋に行くのが日課だ。手ぶらで散歩なんて趣味はない。必ず何か買って、食べてから帰る」


 そしてそれが、俺の体が少々ぷより気味な理由だ。


「有沢、俺はライトニングなんちゃらじゃない。生粋の日本人だ。好物はラーメンで、自分の本名も、どこが散歩コースかも、たった今思い出した」


「そう、よかったじゃん」


「いいや、まだ納得がいかない。俺が何者で、何をして生活していたのか、その大部分が思い出せないんだ」


「……エルジェイ」


 立ち止まって呆れている有沢を放置して、俺はしばし頭を抱えて、じっと考え込んだ。思い出せない、思い出したい……なんだこの気持ち悪い感覚は、自分の中で、手がかりとなるようなモノがすっぽ抜けているぞ……。


「もう少しだ……探偵業という職業に対し、矛盾の一つ一つを解明し、深い疑念を抱き続けて……」


 腕時計はないが、十分ほど経っただろうか。待ちくたびれた有沢が、冷めたジト目になっている。


「思い出した〜?」


「ダメだ。あらゆる事象を矛盾に思う基準までも忘れている。こんなにツッコミどころ満載なのに、どこら辺がボケなのかイマイチわからないんだ」


「へー、わかりやすい表現ダネー」


 有沢が歩きだすので、俺は置いていかれると焦った。だが彼女は少し先で立ち止まって、再び長い黒髪をなびかせて振り向いた。


「それじゃボケを見つけに行こうか」


「すごい表現だな」


「ひとまず、第二ビルの一階にある探偵事務所に入っておこう。依頼人とは、そこで待ち合わせる予定だから、彼に会ったらきみも何か思い出せるかもね」


 記憶喪失で苦しむ俺に、他人事感たっぷりの励ましをかけてから有沢はまた歩きだした。


 このまま、ついていって良いのだろうか。


【はい】

【いいえ】


 ん? なんだ? 今、頭の中に、選択肢がパッと浮かんだ。懐かしいな、やたら頻繁に選択肢が出てくる何かに、ガキの頃は熱中していた、ような気がする。


「隣、いいか」


「どうぞ」


 俺は小走りで有沢の隣に並んだ。なんだか、右足の太股からかかとにかけてズキズキするんだが、無事に走れて良かった。


「お前と行動を共にしたら、いろいろ思い出せる気がする」


「もう、変なエルジェイだな。打ち所が悪かったんじゃないの?」


「そうかもしれないな。ちょっと頭の、ひたいの周辺が痛むんだ」


 でも悪党に殴られた記憶はない。忘れているだけだろうか。


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