第6話 特殊な療養施設
「あのー! 今すごい音がしませんでした?」
依頼人が廊下を走ってきた。案の定、僕らが運んでいるお兄さんを見下ろして、絶句している。
「あ、あのっ、その上半身裸の人……まさか、先輩ですか?」
「そうなんです。うちで大事にお預かりしていますよ。今はちょっと寝てますけど」
「やめてくださいよ、先輩はデリケートなんですから」
「脱走犯には強行手段を取らないと、行方不明になっちゃいますからね。ちょっと扉に突進して気絶しちゃいましたから、これから骨折などが無いかスキャンいたします」
さすがに小言の一つも飛んでくるかと思いきや、依頼人は呆れ顔で肩をすくめた。
「ああ、先輩ならやりそうです。研究所に戻るためなら、わざとケガとか作りそうですし……」
依頼人はハの字まゆげでため息をついた。
「こうして動かない先輩を見たのは、本当に久しぶりです。マジでこの人、一日中仕事してるんですよ。ほんと、俺たちのほうが心労で倒れちゃいそうでしたよ」
「自主的に眠るように、訓練もさせますからね」
「ありがとう、ございます……」
感謝と不本意がごちゃ混ぜになった複雑な表情を浮かべながら、依頼人はお辞儀した。
「あの、先輩は本当に手が掛かると思いますが、どうかよろしくお願いします。あなた方を信じても、良いんですよね?」
こんな状態の先輩さんを見て、そんなこと言えるなんて、ちょっと狂気めいてるけど、心根は優しい人なんだね。
「はい! 全面的にお任せください」
「三時二十七分、投薬を開始」
俺は腕にするすると刺された針の激痛で目が覚めた。まぶしい部屋、白い天井、まぶしいのは俺の顔面めがけて電灯が向けられていたせいだった。
マスクにメガネをした白衣の男たちと一斉に目が合う。俺は起き上がろうとしたが、ぐっと強い力で押さえつけられていた。ベルトのような物で、ベッドに縛り付けられていたのだ。
視界の端に、たくさんの透明な袋が揺れている。これは、点滴だ! たくさんの点滴が俺の腕とつながっている。
「お、おい! なんの薬だ! なに勝手に人の体に流しこんでんだ!」
「大丈夫ですよ、落ち着いてください」
「人体には無害ですから」
「政府からの許可は下りています。ほんの少し、記憶が混濁するだけですから、すぐに治まりますよ」
「ゆっくり眠ってくださいね」
「ふざけるな! ほんとに何やってるんだ! こんなっ、こんぁこぉっへ……」
呂律が回らない。混乱しているせいか、それとも、この点滴袋に入っている薬品にとんでもない即効性があるのか、考えている場合ではない。
俺は最後の力を振り絞って、必死に手足をバタつかせていた。拘束バンドがおそろしく堅い。怖い。点滴の一滴一滴が落ちてゆく様子が怖くて、視界に入れないように顔を背けながら何か喚いていたが、自分で何を言っていたのかわからなかった。たぶん、戻らないと、とか、こんなことをしている場合じゃない、とか。
ああ、うう、眠い、息が、息を吸うのも眠くて止まりそうだ……。
顔に人工吸引器を乗せられた。ああ、呼吸が楽になってきた……。
空気が好きなだけ吸えるって、じつはすごく贅沢だったんだな。胸いっぱいに……吸い込んで、吐ける。その繰り返しに……感動する。
……呼吸さえ楽なら、後は、もう、どうでもいいかも……しれないな……
【はい】
【いいえ】
この二択のうちから一つを、コントローラーのスティックで選んで、丸ボタンを押す。まるでゲームの中に自分の意思が入っていくような感覚が、たまらなくクセになっていた。
【きみのなまえは なんていうの?】
ひらがなの、あいうえお表がブラウン管のテレビ画面いっぱいに表示される。俺はデフォルトの名前を消して、一から入力した。
【ふぅん。□□□□って なまえなんだ。これから よろしく□□□□。】
いつ見ても有沢姫乃のドット絵は素晴らしい。俺は彼女に本名を呼ばれ、頼りにされるのが、なんか、くすぐったかった。クラスの女子とも話せないし、話したくない年頃だったせいか、こんな俺に笑顔でヒントをくれたり、不安そうな顔で心配してくれる彼女が、なんだか、遠い世界の人だとわかっていても、いつか会えるんじゃないかと思うようになっていった。
【さあ □□□□! きょうも なんじけんを かいけつしようね!】
【はい】
【いいえ】
俺は、はいを選んだ。
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