第5話 青ジャージと手錠
部屋に入ったら、バスタオルが床にたたまれて並んでいた。下着やズボンらしき物も置いてある。
有沢は壁際の 床が抜けそうなほど重量感ある黒いベッドに腰掛け、黒いタイツに覆われた細い足を優雅に組んで、特に動じる様子もなく俺を眺めている。
何か文句の一つも言ってやりたいところだが、濡れた体が冷えきっていて、歯がカチカチ鳴ってたまらないので、俺はタオルを拾ってガシガシと体を拭いてゆくしかなかった。
ふと、片手を拘束している手錠から延びる鎖のゴールが気になって、目でなぞってみると、シャンデリアを支える鉄柱に、ぎっちりと巻き付いていた。引っ張ってみたが、びくともしない。鎖の一つ一つが隙間なくみっちりと噛み合っていて、人力では外すことができないようだ。
「あんな高いところに、どうやって結んだんだ」
「スイッチ一つで、降りてくるよ。ここはからくり部屋だからね」
そう言って有沢は、手にしたリモコンでシャンデリアを回転させた。
「こうやって鎖を巻いて、長さを調整できるんだ」
「こ、こら、どんどん短くなってゆくじゃないか」
「トイレは後ろの壁に隠れてる小部屋ね。回転扉になってるから。届けばいいでしょ?」
「ご親切にどうも」
俺は会話を切り上げて、タオルで髪の毛の水気を絞るように拭った。
「着替えの上に、足枷の鍵も置いてあるよ。外さないとズボンが着替えられないからね」
「下着もびちゃびちゃだ」
「ああ、下着も持ってきてるよ。うちのお母さんおすすめ」
「え? お母さん?」
「うん。僕はさっきまで上半身だけの着替えを持って来てたんだけど、そんなに全身びしょびしょな姿をさらされちゃあね。はしごを持ってくるついでに、もう一回お母さんのもとに行って、おすすめの着替えを一式、借りてきたんだ。でも今のきみは手錠をしてるから、今度は上着が着替えられないよね。あとで部屋の温度を上げてもらうから、我慢してね」
親子で犯罪者なのか。
「僕はしばらく部屋を出てるから、遠慮なく全裸になってね」
有沢は足を大きく崩して、床にどっしりと黒いヒールをおろすと、ベッドから立ち上がって、大きく背伸びした。
「なあ」
「ん?」
有沢が振り向いた。
「俺が本当に脱走して、行方不明になったら、どうするつもりだったんだ」
「ありえないよ。この建物には監視カメラや隠しカメラがいっぱい仕込まれてるからね」
「この部屋もか」
「うん、そう。でもきみの全裸画像なんて誰も買わないから」
安心しろってか? できるか。聞かなきゃ良かったよ。
有沢が部屋を出ていった後、俺は鍵を使って足枷を外し、床にきれいに畳まれたトランクスと、青いズボンを指でつまんで広げた。
ん? これは……青ジャージ!?
青ジャージのズボンを履く羽目になった。三十路後半で、上は全裸で青ジャージズボンを履く記憶喪失の男。医者も警察も要る状況下で、
「着替えた〜?」
今、目の前にいるのは有沢姫乃というゴスロリ女一人。
有沢、姫乃……だんだん、この名前に聞き覚えがあるような気がしてきたぞ。気がするだけで、どこで聞いたかは、思い出せない……同級生でないことだけは確かだ、未成年のようだし。
「どうしたの〜? 僕のことじっと見て」
「お前とは、以前にもどこかで会った気がする」
「なにそれ、口説いてるつもり? 危機的状況下で主導権を握っている相手に惚れるのを、ストックホルム症候群っていうんだよ。だからこれは恋愛じゃない。そもそも僕は、きみなんて好みじゃないから」
なんか一方的にフラれたぞ。
「俺だってゴスロリ監禁女なんて願い下げだ。おまけに自意識過剰ときた。手に負えないな」
有沢が拗ねたような顔して、そっぽを向いた。
「そこは、お世辞やおだての一つもないと〜。もしも僕が有益な情報を持っていたとしても、ツンケンした態度取られちゃあ何も話す気になれないよ」
「話してくれるのか? 俺を捕まえて自分の助手にしたがる奴から、まともな話が聞けるとは思えないな」
「ふぅん、僕との会話が人生のムダだって判断したんだね。女性の愚痴の一つも聞いてくれないジャージ男かぁ、どこにモテる要素があるんだろ〜ね〜」
「監禁ゴス女よりはモテるだろ」
「ふふふ、そうかもね。何かあったかいもの作るよ。何が好き?」
「ラーメン……と言いたいが、遠慮する。食欲がわかないんだ」
何が入ってるかわからないからな。ここで提供される物は、極力口にしないようにしなければ。
「ふふ、食べるかどうかは、きみに任せるよ。それじゃあラーメンの出前を頼むから、部屋で好きにしてて」
有沢は笑顔で部屋を歩き去っていった。異物が混入してなけりゃいいがな……。
さて、今度は天井のシャンデリアに巻かれた鎖か。薄暗いせいではっきりと見えないが、このシャンデリアもなかなか頑丈な作りなんだな。
リモコンは、見当たらないな。持って行かれたか。
……よし、やるか。
この手錠から伸びる鎖をよじ登って、シャンデリアに巻き付いた分を、無理やりほどく! そうすれば長さが増して、もっと遠くまで行けるぞ。
あわよくば、シャンデリアから鎖を外すことができるかもしれない。
俺は高い所は苦手じゃない。体はもうぼろぼろだが、自由のためだ、やってやる。
これ以上、有沢のオモチャにされるのは、一般男性の感覚として耐えられる恥辱ではない。
……よいっしょ! ふんぬっ! もう年齢的に、そして体力的に、いろいろ無理だ。だがあきらめないぞ、あきらめ、ないぞ……。
なんか、鎖が取れた。登ってる最中に、シャンデリアが斜めに傾いて、鎖が全部ザララッと落ちてきた。俺が重いからか? それとも、機械の作りが甘かったか。後者にしておこう。落ちてきた鎖は、右肩にでも巻きつけておくか。手錠から外れないしな。
脱出だ。さっき有沢が出ていった扉が、半開きになっている。あいつも二度も脱走されるとは思わなかったんだろう。
扉に近づいて、聞き耳を立てる。かすかに、人の声がした。男の声だ。
やっぱり、男もいるよな。大柄な俺を運び入れるには、母子だけじゃきついはずだ。
幸い、声は遠い。扉の隙間に前頭部を入れて、廊下にいる人間との距離を計った。右よし、左は、白衣の背中が見える。しかも曲がり角で消えた。よし、廊下が無人になった。
白衣ってのが気にかかるが、医者か狂気の科学者か質問できる状況じゃない。
俺は部屋を抜け出した。行き先は、外……と思っていた俺の決心が、隣の部屋の扉の前で、鈍った。
ガキの頃に見学した、給食センターの調理室への扉に少し似ていた。扉の上半分にガラスの窓があって、中の様子が見える。
有沢は、たしかこう言っていた。隣の部屋を開けるわけにはいかないと。
隣の部屋……何があるんだ? 俺に見られたらまずい物でもあるのか? たとえば、俺の記憶に関する書類とか。
げ、まずい、ぼやぼやしてたら誰か来た。ひとまず引き返して部屋に隠れよう。
「博士の具合は、どうでしょうか」
扉の隙間から、相手の顔をうかがう。
あいつは……だれだったか、見覚えが……たしか、登山部で肩を……ああ、そうだ、脱臼した後輩だ。今は、俺の研究を支える右腕だ。そんなヤツが、どうしてこの怪しい建物にいて、なおかつ俺の具合をうかがっている。
お前が、俺をここに売ったのか?
なんのために。
研究の成果を、独り占めするためか? そんなことをするヤツじゃない、はずだが……。
後輩の話し相手は、白衣の男だった。まだ初日ですから、気が早いですよ、などと言って後輩の質問を全てはぐらかしている。二人は、俺がいる部屋の前を歩き去っていった。
俺の記憶……取り戻したい。このままどこかへ、あてもなく逃げてはダメだ。手掛かりがほしい。今の俺が、どうしてこんなことになったのかの原因を探ってから、生き延びたい。
研究は……俺にとっては、命そのものだから。隣の部屋へ行こう。今なら、廊下には誰もいない。
隣の部屋への扉には、鍵がかかっていた。仕方がないから、扉にはまったガラス越しに室内を眺めた。
何もない部屋だった。これから飾り付けられるかのように真っ白で、置いてある家具も無い。
ここに、また俺のように誰かが連れてこられて、軟禁されるのか。鎖に繋がれ、脱出する案を次々に浮かべては、絶望したり、喚いたり、果ては泣いたりするんだろうな。
有沢はここを保護施設みたいに言っていたが、本当は何かの実験施設なんじゃないか? 俺は実験に参加したいと、意思表示したのだろうか? いや、そんなはずはない。俺には、人生をかけてやらなければならない事があるんだ。あの研究を完成させないと。
戻らないと
戻らないと戻らないと戻らないと戻らないと
「ここに入りたいの?」
有沢の声に、俺は両手を挙げたい気持ちに駆られた。銃口をこめかみに突きつけられている気分だ。
「有沢、誰に雇われて俺を捕えている」
「顧客情報だから言えないな」
ヒールの足音の他に、あと数人分の靴音も聞こえた。
観念して振り向くと、有沢の両隣に、スポーツジムの申し子みたいなのが並んでいた。
「ひどい顔してるー。せっかくのイケメンなのに」
「どこがだ。三十後半だ」
「うん、知ってる。でも日に当たってなくて、好きなことに没頭してきたきみは、ちっとも老いてない。ずっと時が止まってるみたい」
「俺の若い頃の顔を知ってるのか?」
「写真でね。登山部だったんだってね」
登山部の写真を、どうして有沢が。……やっぱり、あいつが俺をここに……いや、まだ確証がない。
「俺をどうするつもりだ」
「ここにいなって。別のこと考えて生きてて」
「無理だ。俺は戻らなきゃならない場所があるんだ。みんなが俺を待ってる」
と思う。たぶん。自分で言わないと、この状況下では誰も言ってくれない。
俺はダメ元で、有沢たちの脇をすり抜けて走った! 両手の先を鉛筆みたいに尖らせて「うおおおお!」と風を切って頭突きフォームで走った。
そして突然開いた部屋の扉に、頭から激突した。
「なぁんだ、スタンガンで気絶させるほどでもなかったね」
俺は頭を押さえたまま起きあがれなくなっていた。廊下の申し子、あ、もう自分が何考えてるのかわからなくなってきたから、何も考えない。
「念のため、骨折してないかスキャンしよう。国家の大事な頭脳を守る頭蓋骨だもの」
有沢が男たちに指示する声がする。
俺は両手両足を掴まれて、運ばれていった。
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