第3話   冗談じゃない、俺は脱出する!③

 ……なかなか治らないぞ。めまいの原因の一つに、耳の器官の異常があるが、俺の場合は、どうやら風邪を引いたらしい。寒気がしてきた。体が微妙に震えてくる。


 全裸で土砂降りの中、橋なんて風通しの良い場所を歩いていたせいだろうな。原因の心当たりはあるのに、どうして自分がそんなことをしていたのか、まるでわからない。


 このままじっとしているわけにもいかない。少しマシになってきたような気がする、ということにしておいて、さあ覚悟を決めろ。


 大丈夫、大丈夫だ、上手くゆく。


 外だ。早くここから、早く、早く外へ。


 震える体に鞭打って、再び土砂降りのバルコニーへ。まるで滝に打たれる修行僧だ。やけくそだ。


 ん……? 右隣の部屋のバルコニーが、意外と近くにあるぞ。この距離なら、飛び移ることができそうだ。


 そうだよ、何も一気に地上へ降りなくても、隣の部屋に隠れて、有沢たちをやりすごしてから行動してもいいじゃないか。よし、隣の部屋で、ちょっと休憩させてもらおう。悲鳴を上げる右足を酷使することになるのが、ちょっと不安だが、己の命の安全には替えられない。


 雨でべたべたになっていて、足場は悪い。足を滑らせたら、高所からまっさかさまだ。このカーテンで作ったボロボロのロープ……保険程度の命綱には、なってくれよ、頼むから。


 よし、しっかりと腰に巻きつけた。


 念のために何度も引っ張って、強度を確認する。繊維が大量に手にくっついてきた。よし、無いよりマシだ! やけくそだ!


 この最高の相棒である鎖も、腕に巻き付けておくか。なんとなく、武器になりそうだ。それと、パンツとズボンも急いで履いておく。最低限の人間の尊厳を守るためにだ。


 さてと……高いところは平気だが、雨で濡れたバルコニーの細い手すりに裸足の片足を乗せると、そのぬるつきに恐怖した。


 うぐぐ、躊躇している暇はないぞ俺。人を監禁するような人間の帰りを、ここで待っているわけにはいかない。


 よし、跳ぼう!


 俺はもう片方の足も、ついに乗せた。ゆっくりと、立ち上がってみる。両手を広げて、バランスを取って、隣のバルコニーへ向き合うために、一歩、また一歩と、少しずつ細かい角度調整をする。思わず確認しそうになる、地上との距離。ダメだダメだ、見てはいけない。


 息を止め、膝を屈め、絶対に助かるんだと信じて、跳んだ!


 ちょっとつま先が滑ったのが俺の思考を真っ白にした。が、気づいたときには、となりのバルコニーに肩から不時着していた。


「ハ……ハハハ、やってみるもんだな」


 肩がいってぇが、そんなのどうでもいい。まだ胸がどきどきしている。興奮で少し上がった体温の恩恵を受けて、俺は立ち上がった。


 隣のバルコニーの床は少しへこんでいて、水たまりができていた。裸足が水に沈んで、足の裏に砂利みたいなのが触る。


 窓から部屋の中に入りたかったが、内鍵が掛かっていた。


 ……この窓ガラスを、鎖と足を使ったら割れるだろうか。しかし、雷鳴でごまかしきれない音が鳴ったらどうしようか。俺が隣の部屋へ移動したと気づかれないか。


 う、もう足が上がらない。今頃になって、慣れない運動に使った足と太股がストライキしだした。


 まだだ、まだ俺には利き腕がある。右腕に巻いていた鎖を解いて、右こぶしに巻きつけた。ゲームのキャラになりきって、思いきりガラスを殴打した。


 いってええええ……


 しかも、ガラスがびくともしない。反動で右腕と右肩が、しびれた……。


 この窓ガラス、よくよく観察すると部屋がゆがんで見えるほどの分厚さがあった。窓枠の幅と造りから判断して、防弾性も高そうだ。こんなの人間の手で割れる代物ではない。利き手を骨折していては、何をするにも激痛とともに効率が落ちる。


「どうするかな……」


 雨が俺と窓を叩き続ける。


 何気なしに空を見上げると、暗雲に血が通いだしたごとく光の筋がほとばしり、横隔膜まで雷鳴が響いた。


 目の網膜に焼きつくような鮮明な白い光が、どこか、手を伸ばしたくなるほど欲しいモノのような気がして……。


「うぉわ!」


 俺はバルコニーから身を乗り出して、あわや落ちかけていた。腰に巻いたボロ布製の命綱がなければ、どうなっていたことか。


 俺は……雷が、欲しいのか……?


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